第二の故郷横須賀追浜、航空廠飛行実験部

 昭和十二年四月一日、海洋飛行団を辞した森川は、横須賀追浜にある海軍航空廠飛行実験部の門をくぐった。
森川を出迎えた飛行実験部水上機班の班長である近藤勝治中佐は、「森川、大学生相手で少しカンが鈍っているだろうから、ボートコルセア水上偵察機を使って伊東少佐から飛行実験部での試験飛行の要領を教わり、一日も早く習得するように」と命じた。
森川に試験飛行の要領を教える伊東祐満少佐は、森川の郷里小豆島出身の空林永治と肩を並べる名飛行艇乗りであり、森川とは旧知の間柄であった。
 近藤中佐が、「大学生相手で少しカンが鈍っているだろうから」と言ったのは、飛行機の操縦に限らず音楽でも、スポーツでも、およそ技芸の修得は、現役を離れるとその技量は急激に低下する。習い事の金言に、「稽古を一日怠れば、取り戻すには三日かかる」とあるように、技量を維持していくには、日々の鍛錬が不可欠である。まして森川が乗っていたのは、大正時代の骨董品であるアブロ504K型陸上練習機や三式陸上初歩練習機であった。
 森川によれば、
「毎日飛行機に乗っていますと、頭も体も空に慣れていますが、その頃の飛行機は今と違ってヒーターもなく与圧もされていませんでしたので、飛び立つ前には三十度近くあって、暑いなぁーーと思っていても、五千メートルも上がればブルブル震えなければならない氷点下の世界です。私が試験飛行していた二式大艇ですと五千メートルまで十分余りで上がりますので、夏から冬へあっという間です。油断していますと、すぐに風邪をひいてしまいます。たえず体の調子に注意していないと、テストパイロットという仕事は務まりません。その上、上に行くほど気圧は下がり空気は薄くなりますので、「飛行機乗りの六割頭」といって、ものを考える力が低下してしまいます。また体を動かすのも億劫になります。飛行機から離れていますと、次に乗る時には少しずつ頭と体を慣らしていかなければなりません。飛行機に乗らなくなりますと、どんな名人上手でも操縦は下手になります」
 森川が羽田の海洋飛行団においてアブロ練習機や三式初歩練習機を使って大学生相手に教官をしていた二年足らずの間に、立川からロンドンまで飛んで国際記録を樹立した朝日新聞の「神風号」(陸軍の三菱キ一五司令部偵察機試作二号機)などは、長大な航続距離だけでなく、最高速度四百八十キロ(高度四千メートル・中島製「ハー八型」七百四十馬力発動機一基搭載)を誇るまでになっていた。また海軍機では昭和九年五月に三座水上偵察機の最高傑作と称され、ドイツからライセンス生産の打診があった川西九四式水上偵察機が制式採用されたのを嚆矢に、十一年六月には世界初の渡洋爆撃を成功させることになる三菱九六式陸上攻撃機が、続いて十一月にはそれまでの戦闘機とは一線を画す低翼単葉、最大速度四百二十六キロを誇る三菱九六式艦上戦闘機などが、陸軍機では昭和十二年に制式採用された中島九七式戦闘機、三菱九七式軽爆撃機、三菱九七式司令部偵察機、翌十三年に制式採用された三菱九七式重爆撃機などが日本独自の純国産軍機として設計、試作、製作されるという具合に、飛躍的な進化を遂げていた。
伊東少佐から飛行実験部において行われている各種試験飛行の説明を受けた森川は、スベリで暖機運転中のチャンス・ヴォートO2Uコルセア二座水上偵察機を詳細に点検した。
チャンス・ヴォートO2Uコルセア二座水上偵察機は、複葉羽布張り鋼管溶接骨組み一部軽金属板の機体、単フロート、乗員二名、全幅十一・五五メートル、全長十・九五メートル、全備重量二・二トン、プラット・アンド・ホイットニー社製Rー130ワスプ空冷式星型九気筒離昇出力四百五十馬力発動機一基搭載、最大速度二百五十七キロ、航続距離八百四十キロ、七・七ミリ固定機銃一挺、同旋回機銃一挺、九十キロ爆弾×一を懸吊、フロートを車輪に換装すれば陸上機としても使用出来る水陸互換式の二座水上偵察機であった。すでに旧型に属していたが、かつて駐米大使館付武官補佐官としてワシントンに駐在していた佐薙毅大尉が、アナコスチア海軍基地において二座水上偵察機が「ダイブ・ボンビング(降下爆撃)」を盛んに行っているのを見て驚き、ヴォートコルセア水上偵察機は傑出した性能であるという報告書を航空本部に送ったほどの傑作機であった。また、それまでの水上偵察機と比べて簡略化された複葉型式と単フロート及び翼端補助フロートの配置は、諸外国の水上偵察機に多大な影響を与え、チャンス・ヴォートコルセアV92ーC二座水上偵察機として、アルゼンチン、ブラジル、中国、メキシコ、ペルー、タイなど各国に輸出されていた。特に中国に多数輸出され、日華事変では中国空軍の主力機として活躍した。皮肉なことに、日本海軍の主力偵察機として日華事変で活躍した九〇式二号水上偵察機は、中島飛行機がチャンスヴォート社とライセンス契約を結び、このヴォートコルセア水上偵察機国産化したものであった。
 操縦席に森川が、偵察員席に伊東少佐が乗り込んだ。