川西航空機(川西清兵衛)と中島飛行機(中島知久平)

森川がテストパイロットとして入社した川西航空機は、日本屈指の航空機製作会社であり、海軍と密接に結びついていたが、中島や三菱などとは、会社設立の動機、その生い立ち、経営者の理念が少し異なっていた。
 それは、創業者である川西清兵衛が、飛行機の「ひ」の字も知らない神戸の石炭石油問屋であったということが色濃く影響していた。
川西清兵衛は、慶応元年(一八六五年)大坂の素封家筑紫家に生まれ、神戸の石炭石油問屋川西家の婿養子となり、六代目「川西清兵衛」を襲名した。商才のある清兵衛は、襲名後家業である石炭石油問屋を大いに発展させたが、それだけに止まらず織物業に触手をのばし、馬の尻尾の毛を使って織物を作り、輸入品であった毛布に似たものを作ったが、売り込みに行った大阪の繊維問屋は、これをゲテ物と相手にしなかった。商魂たくましい清兵衛はくじけず、全国各地をねばり強く売り歩き、ついにニシン漁の好景気で沸く北海道の漁夫に、雨にも寒さにも強い赤ゲットとして売り込むことに成功した。これが契機となり日本毛織を創設した。さらに鉄道(兵庫電気軌道)、倉庫業(川西倉庫)、山陽皮革と事業を拡大させ、関西財界の一翼を担う実業家となったのである。
 その商人(あきんど)川西清兵衛が次に触手をのばしたのは、黎明期の飛行機産業であった。
川西清兵衛は、安田銀行監査役を務めていた関係で神戸の肥料問屋石川茂兵衛から、海軍を退役した中島知久平という機関大尉が飛行機製作事業を興すにあたって資本家を求めている。自分は十万円を投資するが、川西さんも投資しないかと誘われた。
 空を飛ぶ飛行機を造るんか、おもろいやないか、という思いに駆られた川西清兵衛は、中島知久平に会って飛行機造りの話を聞くうちに、飛行機製作は将来有望な事業であると判断し、出資する腹を固めた。
大正三年(一九一四年)に始まった第一次世界大戦で戦線に初めて登場して、その将来性が注目され始めていた飛行機に興味を抱いていた人は少なくなかったが、まだ海のものとも、山のものとも知れない飛行機産業に、巨額の資金を出資しようとする財界人は極めて希であった。
 大正七年五月、後に日本の航空界を背負って立つことになる中島知久平と川西清兵衛の提携が結ばれ、中島飛行機製作所を法人組織に改め、会社の名称を「合資会社日本飛行機製作所」と改称、東京日本橋槇町に本社を、群馬県太田町呑竜寺境内の元商品陳列所を借り受けて工場とし、尾島に飛行場を設けた。
 役員は、川西清兵衛が社長、中島知久平は所長に、以下川西清司、川西龍三、石川茂兵衛、石川茂、有馬唯一、事務長に清兵衛の次男である龍三と慶應義塾大学理財科時代の級友であり、飛行機好きで海外の航空事情に詳しい板東舜一が勤め先の日本郵船を退職して就任した。資本金は労資協力の七十五万円。内訳は石川茂兵衛が十万円、川西清兵衛は五十万円、残り十五万円は中島知久平の労務出資であった。
ここに日本で初めて法人組織の本格的な民間航空機製作会社が誕生したのである。(厳密に言えばその前年、耳鼻咽喉科の岸一太医学博士個人によって「赤羽飛行機」という民間航空機製作会社が設立されていたが、わずか三年で倒産)
社長に就任した川西清兵衛は神戸にとどまり、後に川西航空機の総帥となる次男の龍三を、群馬県太田町の工場に派遣した。
 新会社設立と同時に、飛行機の設計、製作が開始され、その年の八月、中島知久平の手により製作された中島式トラクター一型一号機は、尾島飛行場において佐藤要蔵操縦士の手により初飛行が行われたが、離陸直後に墜落大破。陸軍の岡楢之助大尉操縦の二号機(大破した一号機を修理し二号機と名付けたもの)、続く三号機は離陸することすら出来なかった。
 折しも世情は未曾有のインフレ、全国各地で米騒動が勃発していた。工場のある群馬県太田町では、「紙幣(さつ)はだぶつく、お米はあがる。あがらないぞい中島飛行機」という落首が貼り出される始末であった。しかし、剛毅な中島知久平はこれに屈せず、翌大正八年二月、中島の出世作と呼ばれた中島式四型を製作、同年十月、帝国飛行協会主催の東京・大阪間往復郵便飛行に参加、佐藤要蔵が操縦する中島式四型は、往復六時間五十八分の記録を樹立し、第一等賞を受賞した。
 これを知った陸軍から一挙に二十機もの発注が舞い込んできて製作したのが、ホールスコット百五十馬力発動機を搭載した中島式五型陸軍偵察機であった。日本の陸海軍が民間航空機製作会社に飛行機を発注したのは、これが初めてであり、民間製作の陸軍制式機第一号となったのであるが、世間では、日本飛行機製作所の苦境を見かねた中島知久平の盟友で、陸軍航空本部長の井上幾太郎少将が救いの手をさしのべたのだと噂した。
社長である川西清兵衛は、これで安定した経営が出来るようになると胸をなでおろしたが、それもつかの間、中島知久平との共同経営に大きな亀裂が入る出来事に直面することになった。
十一月に入ると所長の中島知久平が川西清兵衛に無断で社長の印を使い、アメリカからホールスコット百五十馬力発動機を百基も買い付ける契約をしたのである。
 三井物産を通して輸入する百基もの発動機の総支払い額は三百万円という大金であった。それまで赤字続き、かろうじて陸軍から発注を受け、やっと一息ついたばかりの資本金七十五万円の会社にとって、また社長を務める川西清兵衛にとって、破天荒としかいいようのない買い付け契約であった。
川西清兵衛は、このままいけば共同経営はおぼつかないという気持ちを抱き、中島知久平に所長を退任して技師長になってもらいたいと申し入れたが、中島は清兵衛の申入れを拒絶。話合いはもの別れに終わった。
 中島知久平にとって、飛行機製作会社の経営の根本理念は、いい飛行機を造ることにある。金を持っている分限者(金持ち)が飛行機造りという国家的事業に資金を提供するのは、当たり前ではないかという気持ちであった。社長である川西清兵衛と所長である中島知久平の溝は深まり、ついに清兵衛は、中島所長を解雇するという判断を下した。これが発端となり従業員は社長派、所長派の両派に別れて対立、工場は一ヶ月以上も休業状態を続けた。
社長として苦境に立った川西清兵衛は、中島知久平に対して、「あくまで所長を辞めないのなら、この工場を三日後に十二万円で買い取って欲しい」と申し入れた。
 川西清兵衛にすれば、退役将校である中島知久平に、わずか三日で十二万円もの大金を用意出来るはずがない、これで中島のクビを切れると踏んだ。
 三日後、中島知久平は、机の引き出しから無造作に十二万円の小切手を取り出すと、笑みを浮かべながら川西清兵衛に突きつけた。
 会社を去らなければならなくなったのは、社長の川西清兵衛の方であった。
中島知久平は、陸軍航空本部をたずねて井上本部長に、川西と手を切って独立する。ついては後押しをして欲しいと申し入れ、快諾を得ており、さらに同じ群馬出身の「武ト金」こと、政友会の武藤金吉代議士の口利きで三井物産に資金の後援を取り付けていたのである。
川西清兵衛一代の不覚であった。