日本における航空機開発の歴史

 これは、日本における航空機開発の歴史に起因している。
一九〇三年(明治三十六年)十二月十七日、アメリカ・ノースカロライナ州キティホーク、キル・デビル・ヒルの荒涼たる砂原において、自転車製作技術者であるウィルバーとオービルのライト兄弟が、「ライト・フライアー号(翼十二メートル、自重二百九十五キロ、自作水冷式四気筒十二馬力発動機、プロペラ二・四メートル×二)」を、距離三十六・五メートル、地上三メートル、時間にして十二秒間飛ばして人類初の動力飛行に成功すると、三年後の一九〇六年十月二十三日、フランスにおいて飛行船の製作で有名なブラジル人のサントス・デュモンが自作のボックスカイト型bis飛行機を約六十メートル飛ばし、欧州ではこの飛行が世界初の動力飛行と認定された。続いて一九〇八年七月四日、アメリカのグレン・カーチスがジューンバグ機で約一キロの飛行に成功。翌一九〇九年七月二十五日には、フランスのルイ・ブレリオが自作のブレリオX1機でドーバー海峡横断飛行を成功させ、一躍世界中の脚光を浴びたように、欧米各国において飛行機は日進月歩の進化を遂げていた。
 日本では、ライト兄弟に遅れること七年後の明治四十三年十二月十四日、日野熊蔵陸軍歩兵大尉の操縦するドイツ製ハンス・グラーデ単葉機が代々木練兵場において地上滑走中に飛び上がり、高度一メートルで三十メートル余り飛行した。翌十六日も高度三十メートル、距離にして約二百五十メートルの飛行に成功したが、「滑走中の余勢によって離陸したもの」とされ、同月十九日に日本人初の万国飛行免状を取得している徳川好敏陸軍工兵大尉の操縦するフランス製アンリ・ファルマン複葉機が、代々木練兵場を二周、飛行時間約四分間、距離約三千メートルを飛び、続いて日野大尉の操縦するハンス・グラーデ機が、飛行時間一分二十秒、距離約七百メートル飛んだというのが、我が国における初飛行の公式記録となった。
このように、日本において飛行機というものは「舶来物」であり、明治四十四年五月に奈良原三次が製作した「奈良原式二号機」が高度約五メートル、距離約六十メートルを飛び、国産機による初飛行を成功させたが、性能の優れた外国製飛行機を輸入し、その操縦と整備を習熟するのに止まっていた。
ライト兄弟アメリカで初めて空を飛んだのが一九〇三年である。我が国ではそれから七年後の一九一〇年、明治四十三年に陸軍大尉徳川好敏氏と日野熊蔵氏が飛んだのが最初である。海軍でも大正三年海軍大尉和田秀穂氏、山田忠治大尉が青島の事変にファルマン機で参加して軍事的価値を認められた。大正五年には日本製横廠式サルムソンを造って佐世保・横須賀間七百浬を迂回航路で十一時間三十五分の記録がある。それから国内にも次々と飛行機会社が出来るようになった。大正七年中島、大正八年川崎、九年には川西、愛知、日立、十四年に立川という様に自立時代を迎えたのであった。」
 森川が『大空一代』でこのように述べているように、大正七年に入ると国産の飛行機を製作しようという気運が盛り上がり、中島飛行機製作所が設立されたのを嚆矢に、川崎造船所兵庫工場飛行機課、石川島飛行機製作所、渡邉鉄工所、三菱造船神戸内燃機製作所、川西機械製作所、愛知時計電気航空機部などの民間航空機製作会社が矢継ぎ早に設立された。
 しかし、欧米では飛行機が軍用開発のみならず、郵便輸送や旅客を運ぶトランスポーターとしての開発や研究が推進されていたのに比べ、国力の乏しい日本では民間の需要は見込めなかった。そこで、これら国内各航空機製作会社は軍用機の開発に全力を注いだ。中島は陸海軍機、川崎は陸軍機、石川島は陸軍機、渡邉は海軍機、三菱は陸海軍機、川西は海軍機、愛知は海軍機の製作をという具合に、各航空機製作会社は陸海軍と密接な関係を持ち、国防というポリシーのもと、研究や開発、試験評価、外国の最新鋭機の購入などの役割を陸海軍が果たし、設計、試作、製作、修理といった役割は民間航空機製作会社が担うという具合に、官と民とがそれぞれの役割を分担し、相互に補完することにより、国産の飛行機を飛躍的に進化させるとともに、民間航空機製作会社は、その企業規模を急速に拡大させたのである。
 中島飛行機などは、その典型である。
 創立者である中島知久平は、明治四十五年にアメリカへ飛行機の操縦と構造の研究のために出張を命じられ、日本人としては三人目の万国飛行免状を取得した元海軍機関大尉であった。大正七年、海軍を除隊した中島は、炊事婦を含めて全社員九名の中島飛行機製作所を設立すると、陸軍の建軍以来勢力をふるっていた長州閥の四代目領袖であり、陸軍航空本部長兼軍事参議官である井上幾太郎陸軍少将や、通称「武ト金」の名で知られていた政友会の武藤金吉代議士、さらには井上少将の斡旋で提携した三井物産など、軍部、政界、財界の後押しを受けて急速に会社を発展拡大させ、終戦までのわずか二十数年の間に、全国十二ヶ所に機体、発動機、補機、銃架などの各種工場、そこで働く従業員は関連会社や下請会社も含めると二十五万人、系列会社六十七社を擁する日本十大財閥の一つにまでに膨れあがらせたのである。に起因している。