「咳をしても一人」・尾崎放哉、終焉の地

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 「咳をしても一人」・尾崎放哉、終焉の地

 世界一狭い海峡から歩いて5分ほどのところに、南郷庵(みなんごあん)という小庵があり、大正十五年四月、尾崎放哉という「咳をしても一人」「足のうら洗へば白くなる」「入れものが無い両手でうける」など、種田山頭火とならぶ自由律俳句の傑作を残した俳人が小豆島に流れ来て、ここを終焉の地としています。
 尾崎放哉、本名・尾崎秀雄。明治十七年一月、鳥取市に生まれる。県立鳥取第一中学校から第一高等学校第一部甲類(英語)を経て三十八年、東京帝国大学法科大学に入学、四十二年卒業。東洋生命、朝鮮火災海上などで十年余のサラリーマン生活をおくるも、人間不信と過度の飲酒から妻と職を捨て西田天香主宰の一燈園に入園。その後京都の常称院、福井小浜の常高寺、兵庫の須磨寺などの堂守や寺男として各地を流旅。大正十四年八月、安住の地をもとめ小豆島に渡り来て、島四国八十八ヶ所第五十八番札所西光寺奥ノ院南郷庵の庵守となるが、かねてより患っていた喉頭結核を悪化させ、十五年四月七日、庵の裏手に住む南堀トメという漁師の老婆に看とられ、四十二歳で死去したのです。
 この南郷庵のすぐ近くがエンジェル・ロ-ドです。
「海も暮れ切る」という碑は小説家の吉村昭氏の筆によるもの。鏝絵は尾崎放哉が行っていた三日月湯という銭湯のものです。