川西をはじめとした日本の航空機製作会社・・・

「殊に私の敬服に堪えない点は、社長は科学的技術の研究に重点を置かれた事であった。先ず航空機については、大正15年7月航空力学の権威であるAachen大学のKarman博士を招聘して風洞実験による航空力学の研究を開始され、わが国における航空機製作技術の改善に寄与する所が大であった。次に川西機械においては、通信機の製造に着手して事業が急速に拡大発展する様になった結果、真空管と通信機との研究機関を統合して昭和12年8月本社に独立の研究所を作った。
それに加えて昭和13年9月には、独乙のDresden工科大学教授で世界における真空管の草分けであり、無線工学の第一人者であるBarkhausen教授を招聘して其の指導を仰いだという事である。」(『川西龍三追懐録』より抜粋)
 龍三は、森川が入社する半年ほど前の昭和十三年九月、電波工学の世界的権威であるドイツ・ドレスデン工科大学教授のバルクハウゼン博士の日本招聘の陰の立て役者となり、渡航費などの資金を提供したのである。
 欧米に比べて日本は、レーダーなどの電波兵器の開発が大幅に立ち遅れていた。そこで海軍の伊藤庸二造兵中佐は、東北大学教授で八木アンテナを生み出した八木秀次博士とともにウィーンで開催された万国短波学会に出席した際、かつて留学していたドレスデン工科大学に赴き、恩師であり、真空管の草分け的存在で電波工学の世界的権威であるバルクハウゼン教授に来日を懇願し、「学者としてなら日本に行ってもいい」という条件付ながら了承を取り付けた。
帰国した伊藤中佐は、長岡半太郎博士をたずね、長岡博士を委員長とする招聘委員会を設立した。その委員会に寄付する形でバルクハウゼン教授一行の渡航費、滞在費など日本への招聘に必要な資金、さらには二ヶ月にわたり東京、京都、仙台、福岡の各大学において行われた、真空管及びその回路に関する専門講演と、科学と工学に関する一般講演などに関する諸経費などを出したのは、海軍でも、陸軍でも、そして弱電メーカーの東京電気、富士電気でもない、川西龍三を総帥と仰ぐ川西機械製作所であった。
その頃、海軍機の設計、試作に携わっていたのは、官立としては森川が籍を置いていた海軍航空廠(昭和十四年四月一日、海軍航空技術廠に改組名称変更、通称・空技廠)であり、飛行機部と発動機部において、「九〇式水上初歩練習機」、「九三式中間練習機」、「十二試特殊飛行艇」、「九試中艇」などが製作されていた。
 一方、民間航空機製作会社としては、
 ◎愛知時計電気株式会社航空機部ーー主として海軍機の機体を生産。「九八式水上偵察機」・「九九式艦上爆撃機」・「零式水上偵察機」などを製作。
 ◎株式会社渡邉鉄工所ーー主として海軍機の機体を生産。「九六式小型水上偵察機」・「十一試水上中間練習機」などを製作。
 ◎三菱重工業株式会社ーー海軍機及び陸軍機の機体と発動機を生産。海軍機としては、「九〇式機上作業練習機」・「九六式艦上戦闘機」・「九七式艦上攻撃機」・「九六式陸上攻撃機」・「九八式陸上偵察機」・「十一試機上作業練習機」などを製作。
 ◎中島飛行機株式会社ーー海軍機及び陸軍機の機体と発動機を生産。海軍機としては、「九五式水上偵察機」・「九七式艦上偵察機」・「九七式艦上攻撃機」・「十一試艦上爆撃機」・「十二試複座水上偵察機」・「十三試大型陸上攻撃機」などを製作。
川西航空機株式会社ーー主として海軍機の機体を生産。「九四式水上偵察機」・「九七式飛行艇」・「十一試特殊偵察機」・「十二試三座水上偵察機」・「十一試水上中間練習機」・「零式水上初歩練習機」などを製作。
 ◎川崎航空機工業株式会社ーー主として陸軍機の機体を生産。
 ◎株式会社石川島飛行機製作所ーー主として陸軍機の機体を生産。
 ◎昭和飛行機株式会社ーー主として海軍機の機体を生産。
 その他、日本国際航空工業株式会社、満州飛行機製造株式会社、日立航空機株式会社、日本飛行機株式会社などが陸海軍機の設計、試作、製作に携わっていた。(「知られざる軍用機開発上巻・下巻」及び「日本軍用機総覧」・「太平洋戦争・陸海軍航空隊」抜粋・参考)
このように、日本の航空機製作会社にとって、陸海軍は唯一ともいえる販路であった。川西も例外ではなく、水上機屋らしく海軍と密接に結びついていた。