粟島商船学校跡地にあった、清国戦艦「鎮遠」の艦鐘

 粟島商船学校跡地にあった、清国戦艦「鎮遠」の艦鐘
 
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 先週の日曜日、香川県三豊市沖に浮かぶ粟島へ瀬戸内海芸術家村の開村式に参加した。島から島へは船がないと行けないので、戦前には商船学校のあった島であるので、一度行って見たいと思っていた。
 思いもかけず、清国戦艦「鎮遠」の艦鐘があった。
 鳴らしてもいいということなので、八点鐘を打った。
 何とも、もの悲しい音色であった。
 せめて、雨ざらしではなく屋内に保管したらと、そして「まだ沈まぬや定遠は」という言葉を思い出した。
 
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 鎮遠(ちんえん、Chen Yuen)は、清国海軍がドイツのフルカン造船所に発注して建造した甲鉄砲塔艦定遠級の一隻。建造当時東洋一の堅艦と呼ばれた。日清戦争において日本海軍に鹵獲され、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。
艦歴 
 1881年 - ドイツ・シュテッティン(現・ポーランド領シュチェチン)のフルカン造船所で起工。
 1882年11月28日 - 進水。
 1885年 - 竣工。
 1886年8月 - 清国北洋艦隊の旗艦定遠らとともに、補修の名目で長崎に入港。その際、上陸した乗員により騒動が起こる(長崎事件) 
 1894年9月17日 - 黄海海戦中、日本の旗艦松島に直撃弾を与える。
 1894年12月24日 - 威海衛沖で座礁
 1895年2月17日 - 威海衛にて鹵獲。
 1898年3月21日 - 二等戦艦に類別。
 1904年 - 日露戦争に参加。黄海海戦、旅順攻略戦、日本海海戦に参加。
 1905年12月11日 - 一等海防艦に類別変更。
 1908年5月1日 - 運用術練習艦に指定。
 1911年4月1日 - 除籍。
 1911年11月24日 - 装甲巡洋艦「鞍馬」の実艦的として破壊。
 1912年4月6日 - 売却。横浜にて解体。
ja.wikipedia.org/wiki/鎮遠より引用参照
 
 清国海軍所属の戦艦「鎮遠」であったが、威海衛夜襲攻撃で損害を受けたまま日本軍に捕獲され、修理後は戦利艦として日本海軍に編入された。清国が国威をかけて建造した二大甲鉄戦艦「定遠」[Tei'en]と「鎮遠」は当時東洋最強の戦艦であると言われていた。日本海編入後は日露戦争に参加しているが特段大きな戦果をあげるでもなく、日露戦争終結後まもなく除籍・廃艦となっている。 
  明治二十四年六月、その威容を見せつけるために来航した丁汝昌提督率いる清国北洋水師(艦隊)の旗艦「鎮遠」の乗組員が瀬戸内海を航行中、その風景を叙して「山ノ中腹ヲ耕ス如キ貧窮ノ小国ガ、沃野無辺ノ大国清国ト事ヲカマウルガ如キハ笑止也」と嘲笑したように、当時東洋最強の戦艦と謳われていた。
 
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