ずっこけテストパイロット、花の都大東京へ!!「江戸は両国、回向院」と唄に詠われた江戸相撲のメッカ・両国回向院

ずっこけテストパイロット、花の都大東京へ!!
その⑤ 
「江戸は両国、回向院」と唄に詠われた江戸相撲のメッカ・両国回向院
 
イメージ 1
 深川森下駅を目前にしながら、ふたたび京葉道路を戻り来て訪れたのが、江戸相撲のメッカ、両国回向院です。
 
イメージ 2
 
イメージ 3
門を入ると、江戸相撲のメッカらしく力塚がありました。
 
 日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。
 力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。(ウィキペディアより引用)
 
イメージ 4
 
イメージ 5
うーん、パゴダか・・・
 
イメージ 6
塩地蔵、恐い・・・
 
イメージ 7
こんなの、お寺ではじめて見ました・・・
 
イメージ 8
なんと、鼠小僧のお墓がありました。
 
イメージ 9
手前の石を削ってくれとは・・・ご利益は泥棒家業繁栄(苦笑)
 
 時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。ウィキペディアより引用)
 
 
イメージ 11
犬猫の供養・・・
 
イメージ 10
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
 回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
 回向院の境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」(文化十三年・1816)、「唐犬八之塚」(慶応二年・1866)、「オットセイ供養塔」(大正15年)、さらに義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合による「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があります。このように諸動物の供養が行われることになったのも、当院の成り立ちが、人間はもちろん、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くものでありました。(回向院ホームページより引用)
 
百聞は一見に如かず・・・勉強になりました
 
ログ村ランキングに参加しています。
クリックしていただくと他の小豆島のブログ・情報がご覧になれます。
どうか皆さん、ポチッとクリックをお願い致します!!