善行無轍迹

   小豆島と雲仙市、時空を超えての結びつき

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テストパイロットは、久しぶりのスーツ姿

 

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   十一月十二日、小豆島を訪れた雲仙市の皆さん七十五名の皆さんの前でタコ飯屋は、土庄町と雲仙市との文化・歴史・観光の交流発展に寄与したとして雲仙市の小豆島交流推進委員会から感謝状を頂きました。これからもタコ飯屋は、「善行無轍迹」を肝に銘じて雲仙市との交流発展に微力ながら寄与していきたいと思っております。
 寛永十四年(1637年)に勃発した島原天草の乱により、雲仙、南串山、島原半島南西部は荒廃し、誰一人住まない無人の地になりました。そこで幕府は慶安二年(1649年)、島原半島へその当時天領であった小豆島の住民の移住を決め、南串山村郷土誌によれば寛永十九年に十七軒が小豆島から移住して以来、明暦三年(1657年)、小豆島の百姓七百名が移住したという古文書が雲仙市歴史資料館南串山展示館に残っているように小豆島から大勢の住民が島原半島に移住しました。そのころの土庄町の住民が数多く移住したのが雲仙市南串山町で、笠が滝の三木家、小海の三宅家などを遠祖とすると伝えられている人々が雲仙市の各分野で活躍しております。このような小豆島土庄町と雲仙市南串山町との深い歴史の縁を後世まで伝えるために、新しい絆づくりが連綿と受け継がれています。
 昭和52年4月1日、東京の専修大学を卒業して土庄町役場に奉職、同日教育委員会社会教育課に出向、四海公民館主事を命じられました。その時、清水誠一教育長から、「白鳥蘆花に入る」 という言葉を教えていただきました。名作「次郎物語」 の作者の下村胡人という人が座右の銘にした言葉で、葦の白い花の生えている水辺に白鳥が降り立つと白鳥は背の高い蘆の花に隠れてその姿は見えないが、葦の花のざわめきでその存在が分かる。自分は一生懸命やっていると言わずとも、その功績は人知れず残る。公民館主事の仕事はまさにこれです。頑張ってくださいと言われました。あれから40数年の歳月が流れました。
役場を定年退職して、早くも五年、アッという間でした。 

小豆島寒霞渓情報🆕👂️ 多くの観光客が訪れている寒霞渓、今週24日の日曜日が見頃とか🤗

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寒霞渓情報🆕👂️ 多くの観光客が訪れている寒霞渓、今週24日の日曜日が見頃とか🤗

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オープンカーには最高の季節です(笑み)

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日本三大渓谷美の一つである小豆島寒霞渓の紅葉のピークは、明後日24日の日曜日です。







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 ヤフーブログから移行した小豆島テストパイロット物語です。これからもよろしくお願いいたします。

 

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 小豆島エンジェルロードの夜明けです。新生小豆島テストパイロット物語です。旧ヤフーのブログのように、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

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愛しのタコさんは、どこに行ったのでしょう・・・

愛しのタコさんは、どこに行ったのでしょう・・・

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 現在午前5時50分、穏やかな小豆島の日の出とともに知り合いのお年寄りが、真魚鰹を釣りに出て行きました。
 もう八十歳を超している知り合いは、釣れても釣れなくても、海さえ穏やかやったら船に乗って沖に行く、と笑っていました。
 今日もタコ釣りは坊主、愛しのタコさんはどこに行ったのでしょうか

全国のブロ友の皆さん、残暑お見舞い申し上げます。

 全国のブロ友の皆さん、残暑お見舞い申し上げます。
 突然、投稿が途絶えまして深くお詫びいたします。テストパイロットは元気です。元気過ぎて多忙な第二の人生を歩んでおります。
 このヤフーのブログが終わることを知り、だんだんと無気力になり、その代わりフェイスブックに投稿しております。勝手ながら「南堀英二」で検索していただきフェイスブックを覗いて頂けますれば幸甚です。

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夜明け前の小豆島エンジェルロード


母親の初盆

母親の初盆

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 戦争中母親は女子挺身隊として、岡山の軍需工場で鉢巻きを巻いて飛行機の部品を作っていました。

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 母親の国民学校高等科三学年の成績一覧、学科はすべて10満点、体操が8、工手9、業9、家事9で平均9.8。さらに学校委員活動をしたと記されていました。

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  テストパイロット家では、平成16年頃まで家で餅をついていました。差配は母親、孫とついた餅を丸めて喜んでいました。
                         
                              初盆

 母親の初盆です。本家の仏壇廻りを清掃していたら、戸袋に粗末な布の袋がありました。開けて見ると、古びた学校手帳というのが入っていました。昭和十六年四月、岡山縣和氣郡片上國民學校に入学したときのものです。
 私は、母親が亡くなってはじめて、母親が岡山県の小学校に通っていたことを知りました。私の母方の祖父母は土庄町の小瀬地区の出身で、戦前に職を求めて岡山県の片上に移住し、品川耐火煉瓦で働いていたという事くらいは知っていました。ただ、母親は戸形小学校の閉校記念アルバムに載っていたので、私は戸形小学校を卒業して淵崎にある東洋紡績に勤めていたと漫然に思いこんでいました。
 母親の国民学校高等科三学年の成績一覧を見て驚きました。学科はすべて10満点、体操が8、工手9、業9、家事9で平均9.8。さらに学校委員活動をしたと記されていました。この成績なら高等女学校に進学できたはずである。しかし、それは職を求めて一家で片上に移住した祖父母にとって、かなえてやれることではなかった。時代も悪かった。昭和5年生まれの母親が岡山縣の片上國民學校に入学したのが昭和14年3月、卒業が21年3月である。太平洋戦争に突入、そして終戦という激動の時代でした。母親から、戦争中に女子挺身隊として鉢巻きを巻いて飛行機を作っていたという事を聞いた覚えがあります。
 私はこの学校手帳を見るまで、母親がこれほど勉強ができる人だと思ったことはありませんでした。ただ、一度だけ、そうかなぁーと思ったことはありました。もう40年も前の昭和55年の12月、大学時代の恩師内田義彦先生(専修大学経済学部名誉教授)が小豆島の拙宅に遊びに来たときのことです。
 その頃、土庄町の四海公民館の主事をしていた私は、ちょうど催されていた子ども会の餅つきに内田先生を連れて行きました。内田先生は喜ばれ、公民館で子どもたちと嬉しそうに話をしていました。昼ご飯時、今なら島活に連れて行き、瀬戸内海の魚介類に舌鼓をうってもらうのですが、若い私はお金がありませんでした。両親に頼んで、朝穫ってきたメバルの煮付けや蒸したワタリガニを食べてもらうことにしました。母親は、なにやら内田先生とにこやかに話をしながらガニの甲羅を外して身を取りだして食べてもらっていました。食事が終わると内田先生は、「君のお母さんは頭のいい人ですねぇー」と言ったのを今も覚えています。母親が人から頭のいい人ですねぇーと褒められたのは、内田先生だけであろうと思います。
 後に、内田先生の友人で劇作家の木下順二さんが、「この間内田君が小豆島へ行って子ども会の餅つきに参加したそうな、教え子の家で食べたカニが美味しかったと喜んでいた。内田君らしいなぁー」と言っていたということを人づてに聞きました。
 母親は、子ども二人が大学を出て社会人になるまで、家の前の小豆島国際ホテルで掃除のパートとして勤めていましたが、一段落つくと母親は公民館活動の書道教室と俳句教室に通い始めました。作句にいき詰まったとき、「私は他の人のように上の学校に行っていないから、言葉を知らないんよ」と悲しそうに私に言ったことがあります。
 平成16年の夏、そんな母親のために私は、パソコンと丸善の製本工房を使い、選句の監修と序文は俳句の先生でありホトトギス同人の山本照雪先生、題字は私が墨書した母親の句集を作りました。母親の俳句だけではなく、俳句に見合った写真を掲載、また小豆島の古い写真を掲載して、再読に耐えるように願いました。20部作製して母親に渡すと、兄弟や俳句仲間に配ったとのこと。この句集を手渡したとき、「こんな立派なものを作ってくれて・・・」と喜んでくれました。
 薬石の効なく母親は昨年の11月に亡くなりましたので今年は母親の初盆、あいにく小豆島は台風のまっただ中、エンジェルロードから父親と母親の御霊が乗るショウロサンを流してあげることはできそうもありませんが、また来年の盆には、二人仲良く自分たちが建てた家に還って来てください。

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