『シェエラザ-ド』・浅田次郎

イメージ 1

                        




                       『シェエラザ-ド』・浅田次郎



 浅田次郎の10年ほど前のベストセラ-の一冊である。「シェエラザ-ド」とは変わった題名と、何気なく手にとってぱらぱらとめくっていると、昭和20年台湾海峡に沈んだ「弥勒丸」、森田船長・・・これは日本郵船の「阿波丸」のことでは、「浜田船長」のことではないかと思い、すぐさま購入し寝る間を惜しみ読んだ・・・
 リムスキーコルサコフの名曲の名を冠したこの小説は、NHKで長谷川京子と反町という人気俳優が主人公をつとめる「海底に眠る愛」という副題のテレビドラマとなり、その当時かなり話題になった。
 もう少し、時代背景を描いて欲しかったという思いの残る本である。
 

 拙著『テストパイロット』より

「四月に入ると、同郷の浜田松太郎が、日本郵船の「阿波丸」とともに台湾海峡に沈んだという悲報が舞い込んだ。
浜田松太郎は、森川の生家の目の前に浮かぶ小豊島出身の商船乗りであった。
 昭和二十年四月一日、浜田が船長を務める救恤輸送船阿波丸(一万千二百四十九総トン)は、連合国軍の俘虜達への救援物資の輸送船であるという識別のためのイルミネーションを煌々と点灯し、緑色に塗られた船体と煙突に描かれた巨大な白十字をサーチライトで照らしながら、南支那海特有の長濤を蹴立てるように十八ノットの速力でシンガポールから敦賀に向かっていたが、午後十一時三十分、台湾海峡澎湖島西北海上(北緯二十四度十五分、東経百十九度十九分)において、アメリカ海軍潜水艦「クィーンフィッシュ」から無警告で射出された四本の魚雷を受け爆沈、浜田松太郎船長以下乗員乗客合計二千名余りが、一等司厨員下田勘太郎ただ一人を除いて全員死亡するという、世界の商船海難(一九一六年以降)史上最大の悲劇となった。
 奇しくも、阿波丸が撃沈された四月一日は、アメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始、陸海軍守備隊将兵約九万人の外に、ひめゆり部隊など非戦闘員である民間人約十五万人が、沖縄本島を戦場として火器、兵力とも圧倒的に優勢なアメリカ軍との凄惨な玉砕戦に突入していった日であった。」 

「昭和二十九年四月初旬のある日、岡本が新聞を携えて分教場にやってきた。
定期船のない小豊島では、新聞とは無縁の生活であった。
「勲さん、兄と阿波丸のことが載っとる」
岡本はこう言いながら、三月三十日付けの山陽新聞を森川に見せた。
 そこには、『阿波丸事件の真相』・『米側不法撃沈認む』という見出しとともに、岡本新太の兄である浜田松太郎の顔写真と、船長を務めていた日本郵船の阿波丸の優美な写真が掲載されていた。

 「阿波丸(アワマル)」(船籍港・東京、本船番号・四九八九四、登記番号・四五六五)
船の等級、逓信省一級船遠洋航路
 船の種類、汽船
船型、スターナー軽構船
船質、鋼
起工、昭和十六年七月十日
進水、昭和十七年八月二十四日
竣工、昭和十八年三月五日
所有者、日本郵船株式会社
製造者、三菱重工業株式会社長崎造船所
総トン数、一万千二百四十九・四〇トン
積荷才量(グレーン)、一万五千五十九・六九立方メートル
積荷才量(べール)、一万三千八百五十三・一三立方メートル
速力、二〇海里(空船)
十九海里(半載)
十八海里(満載)
総長サ、百六十三・五五メートル
幅、二十・二メートル
総深サ、十二・六メートル
乗客数、一等客三十七名
乗組員室、五十
 船艙、六
船艙口数、六
マスト、二本
ブリッジ、船体中央
煙突、船体中央に一本
機関の種類、三菱MS無空気噴油式衡程単動十筩発動機二基
 公称九千六百軸馬力
 正常一万四千軸馬力 
 最強一万六千百四十一軸馬力
無線電信、送信機(長中波一・短波一)、受信機(長中波一・短波一、長中短波一)
国際電略、JRMR
 (『阿波丸撃沈』太平洋戦争と日米関係・ロジャーディングマン著・川村孝治訳・日本郵船歴史資料館監修・成山堂書店より参考抜粋)」