「八日目の蝉」・・・方外の人

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                天使の散歩道の日の出
  「八日目の蝉」の主人公のように」、瀬戸内海交通の要衝で、季節を問わず船が頻繁に出入りする小豆島には、島四国八十八ヶ所巡りの遍路をはじめとして、旅から旅へと漂泊する僧侶、神官、祈祷師、御師、六部、虚無僧、行者、山医者、行商人、香具師博徒森の石松のような凶状持ち、無宿人、諸芸人、旅絵師、乞食、出奔、駆け落ちなど、そして船の寄港地につきものの春をひさぐ遊女のように、種々雑多な「方外(階級外)」の人々が、風のように小豆島にやってきては、風のように去っていました。
  生涯を流旅の果てに小豆島に住み着き、終焉の地としたのは、なにも江戸、明治の人だけではありませんでした。
  大正十五年四月、尾崎放哉という自由律の俳人が小豆島に流れ来て、南郷庵という天使の散歩道の近くにあった小庵を終の棲家としています。
 尾崎放哉、本名・尾崎秀雄。明治十七年一月、鳥取市に生まれる。県立鳥取第一中学校から第一高等学校第一部甲類(英語)を経て三十八年、東京帝国大学法科大学に入学、四十二年卒業。東洋生命、朝鮮火災海上などで十年余のサラリーマン生活をおくるも、人間不信と過度の飲酒から妻と職を捨て西田天香主宰の一燈園に入園。その後京都の常称院、福井小浜の常高寺、兵庫の須磨寺などの堂守や寺男として各地を漂泊。大正十四年八月、安住の地をもとめ小豆島に渡り来て、島四国八十八ヶ所第五十八番札所西光寺奥ノ院南郷庵の庵守となるが、かねてより患っていた喉頭結核を悪化させ、十五年四月七日、庵の裏手に住むテストパイロットの曾祖母にみとられて、四十二歳で死去しました。
 
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