魯迅公園に隣接する虹口サッカー場の秘められた歴史

  昭和七年四月二十九日、虹口公園の外苑(がいえん)で、各国公使、総領事、武官、上海居留民などから多数の来賓、招待者をまねいて閲兵式(えつぺいしき)がおこなわれ、引きつづいて公園内に場所をうつし、天長節(てんちようせつ)祝賀会(昭和天皇誕生日)が盛大に開催された。
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 この虹口公園の外苑が、現在の虹口サッカー場である・・・もう、中国の人でも、この歴史を知っている人はあまりいないであろう・・・
 子どもの大会から国際大会まで、いろいろなスポーツに使われているのは、いいことである。
   
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 以下、拙著『奇跡の医師』より・・・
 
 頓宮も来賓の一人として、夫人の壽美子とともに天長節祝賀会に列席していた。
 一月八日に上海から日本に渡航した韓人愛国団の李奉昌が、昭和天皇鹵簿(ろぼ)に爆弾を投げつけた「桜田門事件」が起こっていたばかりであった。停戦協定が正式に締結されていないなかで、陸海軍の要人が一堂に会すのは、テロリストの格好の標的となる。上海派遣軍司令官の白川義則陸軍大将などは、会場である虹口公園までの道中、乗っている車のナンバープレートを交換したほどであった。
 しかし、天長節祝賀会の会場が上海屈指の虹口公園(新公園)であり、多数の来賓、招待者、事変が終わったと喜び参集する在留邦人をはじめとして中国人や欧米人でごった返していたことから、日本語を流暢(りゆうちよう)にしゃべり、日本人と判別がむつかしい朝鮮独立党の尹(い)奉吉(ほうきつ)が水筒と弁当箱の形をした二個の手製爆弾を持って式典会場にまぎれこみ、投弾のチャンスを虎視眈々とうかがっていたのである、
  折悪しくふりだした雨のなか、上海総領事村井倉松の祝辞が終わり、万歳三唱のために壇上の上海派遣軍司令官白川義則陸軍大将、第九師団長植田謙吉陸軍中将、第三艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将、駐華特命全権公使重光葵、上海日本居留民団団長河端貞次、居留民団書記長友野盛ら六人が椅子から腰を上げたところ、壇上に張りめぐらされた紅白の幔幕(まんまく)の背後から黒っぽい水筒のようなものが白川大将の足下にコロコロと転がり出てきた。
 一同がいぶかしげに見つめていると、「バァン」と空気をふるわす短い炸裂音とともに、二メートルほどの青白い火焔が閃き、黒煙が壇上に立ちこめた。
 壇上にいた者は倒れ伏し、ただ一人顔面を血に染めた白川大将が階段に蹌踉(そうろう)と歩み寄ろうとしていた。
 怒号と悲鳴が飛び交い、式典会場である虹口公園は大混乱におちいった。
  午前十一時四十分、閉会前の、誰もがほっとする一瞬の隙を衝いた爆弾テロであった。
 頓宮が、第二、第三の爆弾テロの恐怖から一刻も早く公園から逃げ出そうとする人波をかき分けて、硝煙のただよう壇上に駆け上がると、植田陸軍中将、野村海軍中将、村井総領事、河端居留民団長らが背を丸め、鮮血にまみれた頭を抱えてうごめき、ずたずたになったモーニング姿の重光公使が起き上がろうともがいていた。
  皆、応急処置どころではなかった。
 爆弾の破片が全身に食いこみ、そこから鮮血が噴き出している。一刻も早く病院へ運び、手当をしなければならない。
  公園から逃げ出そうとする人波をクラクションで追い散らしながら乗用車が壇上に横付けとなり、満身血まみれとなった白川陸軍大将、植田陸軍中将、左眼から鮮血を噴き出している野村海軍中将は上海派遣軍の兵站病院となっている滬東平(フゥドンピン)涼(リヤン)路(ルゥ)の東部日本小学校に搬送され、重光公使や村井総領事、河端居留民団長らは、虹口公園の目と鼻の先にある頓宮の福民病院に運びこまれたのであった。
  頓宮と同じ小豆島出身者で、この事件現場にあって惨状を目の当たりにした第九師団の参謀高橋担(たかはしたん)陸軍少佐の回想によれば、
「もうすぐ万歳三唱閉会という直前であった。犯人は一人で朝鮮人だった。水筒に爆薬をつめていたのを壇上めがけてに投げつけたのである。犯人は直ちに捕らえられたが、更に飯盒を持っていたので取り上げて開けてみると爆薬がつめられていた。水筒であれほどの大事をおこしたのだから、もし一刻の遅れで飯盒の方まで投げられていたら、更にどれ程の惨事となっていたか、思いやられる」注