上海万博その③ 中国館は最低5時間待ち・・・

  エレベーターで一気に最上階へ上がったテストパイロットを、明代の南京の様子を巨大にジオラマしたものが迎えてくれました。
イメージ 1 館内は、もちろん写真撮影禁止。中の模様はこれだけです。すんません。
 
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ゆるやかなスロープで館内の催し物を見ていきます。
 
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  途中から、エスカレーターで降りていきますが、手すりも低く、かなりスリルがあります。高所恐怖症のテストパイロットは、ただただすくんでおりました。 
 
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  中国館は、平日でも最低でも5時間待ちとか、テストパイロットは○○○用入り口とエレベーターを使わせてもらい、申し訳ない。
 
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  昼飯のために中国館を出て、有名料理店の出店へ向かうが、1キロ以上距離が
あった。とにかく、広い、そして暑かった・・・イメージ 6
 
 
杭州料理の名店「知味観」 
 
 拙著『奇跡の医師』より 
 
 魯迅と南京鉱路学堂や日本の宏文学院で同窓であった張協和の二男が病気となったが、内山完造の紹介で福民病院において手術をうけ治癒した。これをよろこんだ魯迅は、昭和八年十月二十一日、浙江省紹興府の人らしく、快気祝いに福建路三四五号にある知味観という、今も現存する名店にみずから足をはこび宴席の予約をすると、二十三日夜、魯迅は張協和とともに頓宮寛福民病院院長をはじめとして、吉田篤二医学士(外科)、高橋淳三技師(放射線室)、古屋助次郎(病院事務長)、高山章三博士(産婦人科医長)と内山完造を知味観に招き、名物の蓮の葉でつつんだ鶏を泥でかためて蒸し焼きにした「叫化鶏(こじき鶏)」や、西湖産の蓴菜のスープである「西湖蓴菜湯」などの杭州料理で感謝の宴をもよおしたのである。
 知味観での一夕、主賓として叫化鶏の泥を木槌で割り、乾杯の音頭をとったであろう四十九歳の頓宮と五十三歳の魯迅の会話は、どのようなものであったのであろうか・・・