支那人の「裏と表」・その壱

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支那人の「裏と表」その壱
 
   九月に光人社から『奇跡の医師』を上梓して以来、本を読むか、ブログを更新しているか、のどかな日々(仕事は激務、おかげで入院した)をおくっている。
 先日、内山完造の『魯迅の思い出』(社会思想社)を再読していると、中国人に関して興味深いことが書かれていた。
  題は、「裏と表」、「表と裏」ではない。何度も読んでいたのに、今になって気にかかったのは、尖閣列島衝突事件をはじめとした、今の日本と中国との関係があるからであろう。 
   まず、魯迅から聞いた袁世凱という政治家の、人材を登用する際の事前テストの場面である。
 袁世凱は、人材を採用する場合、まず書画骨董から金銀珠玉を所狭しと飾っている豪奢な客間に案内する。採用希望の人物はその客間の中央の椅子に座って袁世凱が姿をあらわすのを待つのであるが、袁世凱は一時間たっても、二時間待っても姿をあらわさない。なぜなら、袁世凱は隣室のぞき穴から、客間の人物の行動をじっと見ているからである。 待てど暮らせど袁世凱は姿をみせない。客間の人物は、袁世凱のもとで働こう、一旗あげようという野心に満ちた者である。待っても待っても袁世凱は姿をあらわさない。やがて、退屈のあまり椅子から腰が浮き、書画骨董から金銀珠玉を見て回る。 
 
 アー、好いヒスイの玉がある。
 アー、美しい珊瑚の彫刻がある。
 ヤーヤー、恐ろしく大きな田黄の印がある。
 イヨー、素晴らしい金の塔がある。
 
 金銀珠玉が雑然となべられているが、だれも見ている者はない。
 罪の子である。人間誰しもむらむらと出来心が起る。
 採用希望の者は、ポケットにヒスイの玉をすべりこませると、椅子に腰掛け、何食わぬ顔をして煙草を吹かす。
 それを見届けると袁世凱におもむろに客室に姿をあらわし、一言、二言話しかけ、採用が決定する。
 反対に、何時間待たされても身動きひとつせず、眼中に書画骨董、金銀珠玉は瓦同然という態度をして、清廉潔白そのものであるような人間であったら必ず不採用とするというものである。
  魯迅をして、袁世凱という奴、どこまで怪物にできあがっているのか、盗むような人間なら採用するが、盗まないような人間は採用しない。人生の機微に徹する袁世凱の如き者は、誠に稀代のものであると考えてはいけない。大体においてこれが支那式であると言わしめているのである。
 日本人なら、どうであろうか・・・