隠れキリシタンの島・小豆島と高山右近

 
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 テストパイロットが勤務している職場は禁煙(来年一月から敷地内全面禁煙)であるため、煙草が吸いたくなると職員通用口に出て吸っている。
 道ひとつ隔てたところに小豆島カトリック教会があり、キリシタン大名である高山右近のブロンズ像がある。
 一昨日、テレビで高山右近のことが取り上げられていた。なにげなく見ていると、煙草を吸いながら一日に何度も見ているこのブロンズ像と小豆島中山地区が放映された。
 
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 高山右近が、友人であった小西行長によってかくまわれたと伝えられる小豆島中山地区。棚田と農村歌舞伎で有名。
 
 寛永15年2月に天草四郎時貞を仰ぐ農民などのキリシタンと幕府討伐軍との凄絶な草の乱が終わり、住民がいなくなってしまった天草半島に、当時天領だったこの中山地区から多くの村人が天草(現・南有馬町)に強制移住させられている。今も交流がつづいている。
 
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山中に高山右近が住んでいた「右近屋敷跡」がある。
 
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島には、隠れキリシタンの遺物や遺構が今も残っている。
小豆島が、隠れキリシタンの島、とよばれる由縁である。
 
 
 小豆島にキリスト教が渡来したのは、さらにそれから12年後の天正14年(1586)のことです。天正13年(1585)、豊臣秀吉は、根来・雑賀攻めの功により、小西行長に小豆島の管理権を与えます。行長は、和泉堺の薬種商小西隆佐の養子で、備前宇喜多直家に仕えた後、秀吉に仕えていました。翌年、キリシタンだった行長は大阪のセミナリオ(神学校)にいたグレゴリオ・デ・セスペデスを島に呼び寄せて布教を行わせます。セスペデスは1ケ月余りで1400人に洗礼を授け、島民たちは長さ約15メートル以上もある美しい一基の十字架が建てたといわれています。セスペデスが布教した場所は草加部(くさかべ)地区と推測されています。
 ところが、豊臣秀吉は、島津征伐の後の天正15年(1587)、
キリスト教禁止策に転じ、日本に在留する宣教師らに国外へ退去するよう命じます。これに対して、キリシタン大名である高山右近(たかやまうこん)は、信仰を捨てることを公然と拒否し、このため明石の領地を奪われます。右近は高槻城主から明石7万石に転封されていました。また、オルガンチノ神父らは日本国内に留まります。オルガンチノはルイス・フロイスと共に京都を中心に布教活動をしていた宣教師で、フロイスが去った後の布教活動の中心人物でした。こうして流浪の身となった右近とオルガンチノ神父を庇護したのが、当時、小豆島を支配していた小西行長でした。
 
高山右近は、博多沖の無人島から淡路島を経て室津でオルガンチノと合流し、小豆島に入ります。彼らが小豆島のどこで潜伏していたかは定かでありませんが、オルガンチノは四方を山に囲まれた一軒家、右近はそこからさらに数キロ奥に入った場所で隠れていたといわれており、両人は交流を続けていたようです。また、オルガンチノが小豆島に隠れていることを知った京都、大坂、高槻、堺などのキリシタンが、秘かに小豆島に手紙を寄せてきたり、訪れてきたといわれています。秀吉の命令は、布教活動は禁止するが、貿易は奨励するという不徹底なものでした。
 翌年の天正16年(1588)、
小西行長豊臣秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封されます。ちなみに、この年、讃岐では生駒親正高松城の築城に着手しています。行長の転封に伴い高山右近も九州に向かいます。しかし、右近は、間もなく加賀金沢城主の前田利家に客将として迎えられ、1万5千石の扶持を与えられます。
 その後、秀吉が朝鮮半島に攻め込み、文禄の役(文禄元年(1592)~2年(1593))と慶長の役(慶長2年(1597)~3年(1598))が起きます。このとき、行長は加藤清正と先陣争いをしたり、秀吉に偽って明と講和を結ぼうとしたことで知られています。
 慶長3年(1598)秀吉が没した後、慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が起き、この戦で行長は豊臣側につき敗れます。この時、行長は
キリシタンであったことから切腹を拒否し、京の六条河原で斬首されます。享年42歳といわれています。
 一方、右近は、関ヶ原の合戦後も、加賀で前田家の庇護の下に平穏に暮らしていました。しかし、徳川家康
キリスト教に対して秀吉と同じく禁止策をとり、幕府は慶長17年(1612)に禁教令を出し、慶長19年にはキリシタン国外追放令を出します。このときも右近は信仰を捨てなかったため、ルソン(今のフィリピン)のマニラへ追放となり、そこで没します。享年63歳でした。
 
小西行長の後、小豆島の支配は、片桐且元(かたぎりかつも)に替わります。そして、元和元年(1615)に長崎奉行兼堺奉行の長谷川佐兵衛藤広、次いで元和4年(1618)に伏見奉行の小掘政一(遠州)と替わり、さらに次いで正保4年(1647)から幕府の直轄地となります。そして、これらの支配の下では、行長の方針と正反対に、キリシタン信者に対する厳しい取締りが行われました。特に寛永7年(1630)の小掘遠州による探索詮議により相当数の信者が捕らえられ、転宗させられています。小掘遠州は茶人、造園家としてよく知られている大名です。
 しかし、小豆島ではこの弾圧下の中にも、かなりの人数の隠れ
キリシタンが存在したのではないかと考えられています。ちなみに小豆島には今も各所に隠れキリシタンのものではないかと考えられている墓が多く残っています。その多くは、旧家や旧庄屋のものです。当時は、寺社奉行の管轄であるため治外法権となる寺の境内や、屋敷の中に囲いを作って墓を祀っていたようですが、今も、屋根を横から見ると十字に見える墓や、小さく十字が刻まれた墓などを各所で見ることができます。
 また、寛永14年(1637)、九州で島原の乱が起きていますが、この乱と小豆島とは深い縁があります。この乱は、島原藩肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとする
キリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長の領地だったところで、この乱には行長の家臣だった多くの浪人が加わっていたといわれています。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の遺臣だといいます。
 この乱は、翌年の寛永15年(1638)に、原城が陥落して鎮圧されますが、篭城の3万7千人が全滅しました。この中には多数の農民が含まれており、耕作者を失った島原半島南部は荒廃しました。そこで、幕府は農民移住政策をとり、全国から農民を移住させ復興を図りました。天領である小豆島にも当然その政策が及び、小豆島から島原半島南部一帯に多くの者が移住しています。坂手庄屋高橋次右衛門のようにくじ引きで移住した者、生活困窮のため自ら進んで移住した者など様々ですが、「公儀百姓」として集団移住した家は、内海町田浦、坂手、池田町中山、土庄町笠ヶ滝など1000軒以上もあったといいます。
 
  『讃岐の風土記・出来屋さんのブログから引用させていただきました。