『志に生きた男・頓宮寛 ⑤』

『志に生きた男・頓宮寛 ⑤』 
 
 大正十三年七月二十七日、二十八日の二日間にわたり、頓宮が会長をつとめる上海亜細亜協会は、『亜細亜民族の覚醒と団結を目指す』というテーマの講演会を、日本人倶楽部において催した。
  二ヶ月前の五月二十六日、アメリカ合衆国大統領クーリッジが「排日移民法」に署名、日本人にとって屈辱的な法案が七月一日に施行されたことにたいする講演会であった。
 アメリカは、独立宣言がしめすように、白人にとっては、自由と平等の国である。と同時に、原住民であるインディアンや奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人、中国人移民にとっては、凄まじい人種差別の国であった。
 ヨーロッパからアメリカにやってきた移民の多くは、先住民族であるインディアンを「文明生活を営む能力のない野蛮人(savages)」と蔑み、ライフルと大砲という最新の武器で脅し、抵抗した者は容赦なく撃ち殺したばかりでなく、コレラやペストなどとともに古の昔から人類を苦しめつづけていた天然痘のウイルスを付着させた衣類をインディアンに与えて感染させるという極悪非道の大量虐殺を行い、その土地と財産を強奪したのであった。また、黒人をアフリカ大陸から奴隷船で運び、綿花や小麦などの大規模農場(プランテーション)の労働力として使ったということは、映画の『ルーツ』を見れば一目瞭然である。
 自分たち白人の利益のため、先住民族であるインディアンを虐殺して土地を奪い、アフリカから黒人を連れてきて奴隷として使い、黄色人種である中国人移民にたいしては、居住地を襲撃して虐殺し、その財産を強奪していたが、インディアンをいくら殺そうと、黒人を奴隷として使おうと無国籍のため、どこからも文句を言われなかった。アメリカに移住した中国人労働者も、清国が棄民扱いにしていたことから、移民先で自国民が虐殺され、財産を奪われても、なんら関心をしめそうとはしなかった。
 しかし、同じ黄色人種でも日本人移民のうしろには、日清、日露の両大戦に勝利して世界の五大国となった日本という国がひかえていたことから、インディアンや黒人、中国人のように、日本人移民を虐殺し、その財産を強奪することこそしなかったが、排日移民の動きは険悪の度を増す一方で、一九一三年(大正二年)、カリフォルニア州が外国人の土地所有を禁止するという法律ーー通称「排日土地法」を成立させ、日本人移民が土地を所有することを禁じたばかりでなく、一九二一年(大正十年)七月には、カリフォルニア州リビングストンで十名の日本人農園労働者拉致事件、続いて同州ターラックでの日本人農園労働者五十八名を放逐するという事件など、アメリカ西海岸の諸州で排日移民活動が激化の途をたどっていた。
 翌一九二二年(大正十一年)には、アメリカ合衆国最高裁判所は、黄色人種帰化不能外国人である。その適用は過去に遡るという判決を下した。と同時にアメリカは憲法を改正して、アメリカで生まれた子どもはアメリカ市民であるという条項(合衆国憲法修正第十四条)を、帰化権を持っていない親から生まれた子どもはアメリカの国籍を取得することができないと改正したため、アメリカ市民となっていた日本人移民は、アメリカ国籍を剥奪されたのである。
 排日土地法や日本人労働者拉致、放逐事件、さらにはアメリカの最高裁判所黄色人種帰化不能外国人であるという判決を下したことにたいしてアメリカは日本政府の度重なる抗議をうけながらも、一九二四年(大正十三年)七月一日、「排日移民法」を断行したのである。
  人は、差別、迫害されてみてはじめて、その恐ろしさが身にしみてわかる。まして、異国の地に暮らす日本人にとって、アメリカの「排日移民法」は、人ごとではなかった。
 亜細亜問題講演会の講師は、中国人では国民党中央執行委員で剛直の革命家である張継、民国衆議院議員の田桐、インド独立の志士で元早稲田大学講師のシャストリー博士(Dr・H・P・Shasti)、フィリピン独立の志士であるカラムバカル博士(Dr・Kalambakal)、日本人では上海亜細亜協会会長の頓宮寛、東亜同文書院の坂本義隆教授という顔ぶれであった。
 シャストリー博士の講演は『凡亜細亜運動の意義』という演題で、フィリピン独立運動の父とよばれるアミルテオ・リカルテ将軍の直系であるカラムバカル博士の講演は『アメリカの新移民法亜細亜協会の天職』と題し、二人とも上海亜細亜協会の使命と活動を高く評価するというものであった。
 頓宮はリカルテ将軍と交流があり、リカルテ将軍とカラムバカル博士の二人が写っている写真を額に入れたものが、今も小豆島の本宅に残っている。
 しかし、中国国民党中央執行委員の張継は、『亜細亜民族の平等感』という演題で、日本を激しく指弾したのであった。
「日本は米国の排日問題に遭遇して今更の如く亜細亜の聯盟を提唱するが、民族の鞏固なる結束には相互の平等観念が不可欠である。ところが日清日露戦争後、日本の外交は欧米の仲間入りをして、亜細亜を次等視するに至っている。日本は今回の問題で米国を非難しているが、今仮に日米戦争が起きれば、支那人はおそらく米国に加担するであろう。なぜなら米国の対支政策は日本のそれより悪感情をもたせなかったからである。欧州の戦乱が一千万人を犠牲にして得たものは民族の独立である。日本が民族平等の雅量を自ら示さなければ亜細亜の盟主とはなれない」
  演台に立ち獅子吼した張継は湖南省善化県出身、孫文の右腕といわれた副総理の黄興や哀世凱の刺客に暗殺された宋教仁の盟友で、上海での蜂起に失敗、黄興、宋教仁、陳天果などと日本に亡命したこともある中国革命同盟会湖南派に属し、この年の一月に開催された国民党第一次全国代表者会議において、「連俄(ソ連と提携する)」「容共(共産党員の国民党加入)」「扶助農工(労働者や農民を助けて反軍閥反帝国主義の革命)」が決議されると激しく反発し、この講演会が行なわれた同じ七月に、国民党中央委員会に共産党弾劾案を出すという国民党右派の重鎮であった。
 明治四十年三月、張継は横浜からベトナムにむかった孫文が日本政府から餞別として七千円をもらったことに激高し、「孫文が金をもらって『民報』を日本に売り飛ばした。孫文を直ちに罷免して黄興を後任総理にせよ」と宋教仁とともに提議した清廉の硬骨漢で、同年七月、東京において康有為の保皇会の後身である政聞社の設立大会が神田の錦輝館で開催されたときなど、政聞社の梁啓超が「今、朝廷は詔を下し、期を定めて立憲する。諸君は宜しく歓喜踴躍すべきである」と宣言したところ、張継は同盟会の会員数十名を率いて錦輝館に乱入し、来賓の一人であった犬養毅に、「先日早稲田大学で講演をしたときには、中国はすみやかに革命すべきだと述べたのに、今日は反革命の政聞社に来賓として出席している。犬養先生は二枚舌か」と舌鋒鋭く詰問した剛直の革命の士であった。
 日本に留学経験のある民国衆議院議員の田桐もまた、『中日親善の失敗とその挽回』と題して、日本への感情の悪化の根源は、日本が中国への侵略を強化しようとして強引に受託させた対華二十一ヶ条要求である。これ以来支那人をして日本をみることあたかも仇敵の国であるかの感を抱かせたと痛烈に批判したのである。
 頓宮の講演は、『人類学上から見たる人種問題』というものであった。
  壇上に立った頓宮は、まず日露戦争以後東洋の一大強国となった日本は、欧米列強と調和政策をとりながら、中国にたいしては侵略的政策を強引に推し進めてきたと釘をさし、医師らしく頭骨や脳髄の解剖にもとづく医学的根拠から、白人と有色人種との優劣の差はない。民族の優勝劣敗は国と国との文明の進化の差であり、文明には人間と同じように年齢があり、中国は西洋よりも何世紀にも前に火薬、印刷技術、紙の製造、羅針盤冶金学、航海術、天文学、医学などに先んじて繁栄していた。しかし、アヘン戦争この方、西洋の科学と技術の前にひれ伏し、独立国のていを成さないほどに堕落し、欧米各国の蚕食に為すがままという老衰期にあり、外国人から「東亜病夫」とよばれているが、インドの革命運動のように、中国人の自覚如何で若返ることができる。日本は中国にたいするこれまでの外交政策を改め、同じ亜細亜の民族として共憂共苦の想いをもって接し、中国と相たずさえて亜細亜文明の全盛に尽くさなければならない、と演題こそ『人類学上から見たる人種問題』とはなっているものの、仮借なき舌鋒をもって、母国日本の対中国政策にたいして、批判的な内容の講演を一時間半にわたって行なったのである。