『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑧』

『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑧』 
 
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 一部の中国人から指弾されようと、七階建の本館が完成し、「日本人でも、このような病院が造れるのだ」とか「東洋一の個人総合病院」と謳われるようになった頓宮の福民病院には、第一次上海事変以前より中国人患者が飛躍的に増えたばかりでなく、さまざまな国の人間がおとずれるようになっていた。
 太平洋戦争開戦前、野村吉三郎駐米大使、来(くる)栖(す)三郎(さぶろう)特命全権大使を補佐し、日米交渉に奔走した外交官寺崎(てらさき)英成(ひでなり)の妻で、昭和三十二年、日米両国民が真に理解し、心と心をふれあえるような「かけ橋」が太平洋にかかることを願って書いた『太陽に架ける橋 戦時下日本に生きたアメリカ人妻の愛の記録』注④の著者であるグエン・テラサキも、その一人であった。
  昭和六年十一月十四日、ワシントンで寺崎と華(か)燭(しよく)の典をあげたグエンは、夫とともに日本にむかった。翌七年七月、上海総領事館副領事に任命された寺崎は、妊娠九ヶ月の身(み)重(おも)の妻とともに任地である上海へおもむいた。
 出産を間近にひかえたグエンは、上海に着くと欧米人の産婦人科医師をさがし、イギリス人でドクター・バリーという福民病院の産婦人科に勤務する医師に電話をかけ、自分はアメリカ人なので診てほしいと頼んだが、ドクター・バリーは、貴方のアナムネーゼ(月経、妊娠歴などの既往歴)がわからないので責任を持てないとことわった。
 グエンは、わたしの主人は日本の外交官なのだが、赴任してきたばかりで上海をよくしらない。日本人の医師ならば主人にもさがせるが、日本ではドイツの医学が主流で、分娩(ぶんべん)に麻酔を使ってくれないからいやであると事情を説明した。
  日本と違いイギリスやアメリカでは、出産時の痛みを嫌い、吸入麻酔の無痛分娩が一般的であった。
  これを聞いてドクター・バリーは、自分が勤務する福民病院を紹介したのである。
  中国人のみならず欧米人の患者の多い福民病院では、出産に際して、麻酔を使うイギリス流の産科、用いないドイツ流の産科と、患者によって使い分けていた。
 これは、頓宮が西欧医学の二つの大きな流れーー日本の医学界の主流で、大学に基礎を置き学究的指向の色濃いドイツ流の医学だけでなく、病院に基礎を置き経験にもとずいた臨床指向のイギリス流の医学を積極的にとり入れていたからである。
 ましてや麻酔は、整形外科医にとって不可欠なものであり、弱冠二十八歳にして医学・薬学書を専門とする東京南山堂書店から『薦骨及腰髄麻醉法』を上梓したように頓宮の得意とする分野であった。
 福民病院で産まれ、重光葵が名付け親となった寺崎とグエンの一粒種が、後年アメリカ民主党リベラル派の女性活動家となり、ベトナム戦争反対をさけんだ「マリコ・テラサキ・ミラー」であった。
 頓宮は、福民病院の院長として、共同租界衛生委員会日本代表委員、上海医師会会長などをはじめとした要職ばかりでなく、持ちこまれる種種雑多で世俗的な雑用も精力的にこなしていた。
 その一例が、ミス・コンテストの審査員であった。
  昭和六年七月、上海の邦字紙「上海日報」は、『ミス・シャンハイ(MISS・SHANGHAI)』と題した十七ページの特(とく)輯(しゆう)号(ごう)を出し、百十八人の候補の顔写真を掲載し、読者投票をよびかけたのであった。
 上海日報から審査員の依頼をうけた頓宮は、特輯号において、コンテストの審査の基準を、「東洋型と歐米型」と題して、顔や上半身の写真だけでは不十分とし、アメリカで行なっている、水着になっての審査が望ましいと述べたのであった。
 頓宮は、「吾々醫者が最も注意を払ふ筋肉骨格の関係四肢の調和殊に下肢の解剖的状態等に至つては上半身のお寫眞を通じて想像する外に途の無いのを遺憾に存じます。」と述べ、美人とは容姿と肢体の双方が優れていなければならない。そのためにアメリカのように水着審査を導入しなければという、今ではごく当たり前、しかしそのころとしてはきわめて先進的な見解で、いいと思うものはアメリカであろうとイギリスであろうと積極的にとり入れるという、頓宮らしいコメントをだしたのである。
 整形外科医としての視座から世の中を、物事を考察するという頓宮の思考方法は、外科医として身につけた、実験をもとにした観察(抽象と結びついた観察)をもって社会を認識し、外科医でありながら重農学派の経済学者として名声を博したフランソワ・ケネーと一脈通じるところがある。