昭和20年4月1日、緑十字を付けた救恤輸送船「阿波丸」、無警告で不法撃沈される!!

「阿波丸事件」
 
 昭和20年4月1日、緑十字を付けた救恤輸送船「阿波丸」、無警告で不法撃沈される!!
 
 
  昭和二十九年四月初旬のある日、岡本が新聞を携えて分教場にやってきた。
  定期船のない小豊島では、新聞とは無縁の生活であった。
「勲さん、兄と阿波丸のことが載っとる」
  岡本はこう言いながら、三月三十日付けの山陽新聞を森川に見せた。
 そこには、『阿波丸事件の真相』・『米側不法撃沈認む』という見出しとともに、岡本新太の兄である浜田松太郎の顔写真と、船長を務めていた日本郵船の阿波丸の優美な写真が掲載されていた。
 
 「阿波丸(アワマル)」(船籍港・東京、本船番号・四九八九四、登記番号・四五六五)
  船の等級、逓信省一級船遠洋航路
 船の種類、汽船
  船型、スターナー軽構船
  船質、鋼
  起工、昭和十六年七月十日
  進水、昭和十七年八月二十四日
  竣工、昭和十八年三月五日
  所有者、日本郵船株式会社
  製造者、三菱重工業株式会社長崎造船所
  総トン数、一万千二百四十九・四〇トン
  積荷才量(グレーン)、一万五千五十九・六九立方メートル
  積荷才量(べール)、一万三千八百五十三・一三立方メートル
  速力、二〇海里(空船)
        十九海里(半載)
        十八海里(満載)
  総長サ、百六十三・五五メートル
  幅、二十・二メートル
  総深サ、十二・六メートル
  乗客数、一等客三十七名
  乗組員室、五十
 船艙、六
  船艙口数、六
  マスト、二本
  ブリッジ、船体中央
  煙突、船体中央に一本
  機関の種類、三菱MS無空気噴油式衡程単動十筩発動機二基
 公称九千六百軸馬力
 正常一万四千軸馬力 
 最強一万六千百四十一軸馬力
  無線電信、送信機(長中波一・短波一)、受信機(長中波一・短波一、長中短波一)
  国際電略、JRMR
 (『阿波丸撃沈』太平洋戦争と日米関係・ロジャーディングマン著・川村孝治訳・日本郵船歴史資料館監修・成山堂書店より参考抜粋) 
 
  四国は阿波国徳島県)にちなんで船名を付けられた阿波丸は、日本郵船が戦時中に発注した最後の高速貨客船(姉妹船「安芸丸」)であり、太平洋戦争が始まらなければ、豪州航路に就航するはずであった。
 しかし阿波丸は、日本郵船の船である証の「二引き」のファンネルマークを付けた貨客船として就役することはなかった。
 竣工を迎えると直ちに船舶運営会扱い(C船)となり、宇品から門司を経由してシンガポールまで武器弾薬を運び、復航では錫や生ゴム、ボーキサイトなどの軍需物資を運ぶことが処女航海となった。(陸軍徴用船はA船、海軍徴用船はB船と呼ばれていた)
   昭和二十年一月、阿波丸の船長を務める浜田松太郎は、日本の占領下にある連合国軍の捕虜や抑留者に救援物資を運ぶ救恤輸送船の任務に就くよう命じられた。
 浜田は、明治十一年生まれ、すでに七十歳を迎えようとしていた。戦争が始まらなければ、とっくの昔に船を下りて悠々自適の余生を楽しんでいたはずであった。しかし、戦況の悪化とともに鰻登りに増え続ける船員の殉職は、浜田のような老練な商船乗りが陸で暮らすことを許そうとはしなかった。
 二月一日、日本政府は神戸港に荷揚げされていた残り千トン余りの救援物資を、ジャワやボルネオなどの南方方面へ運ぶために、第三船として阿波丸を使用することを決定し、この旨をアメリカ政府に伝えるとともに、「救援物資ヲ運ブ阿波丸ニ対シテ、絶対ニ攻撃シナイ。臨検ヲシナイ。何ラ干渉ヲシナイ」という絶対安全な航行の保証を再度求めた。
  この任務に阿波丸が選ばれたのは、残り少ない大型の最新鋭高速貨客船であり、搭載されている二基の三菱MSデーゼル機関は、貨客満載状態でも十八ノットの速力で航行することが出来、浜田松太郎船長以下乗組員百四十八名は老練な者が多く、その船捌きは郵船きってと謳われていたからである。
 阿波丸は、救援物資運搬を隠れ蓑に、内地から南方へ、南方から内地へ兵員と軍需物資を密かに運ぼうという思惑には、うってつけの船であった。
 事実、阿波丸は竣工して以来、「海を走る兵器庫」として、幾多の修羅場をくぐり抜けながら太平洋を駆けめぐっていた。
 いつしか商船乗りの間で阿波丸は、「幸運の船」と呼ばれるようになっていた。
  その阿波丸に、絶対安全な航行の保証をアメリカ政府から認められた安導券(ギャランティ・フォア・セーフテイー・交戦国が敵国人または船舶が、ある目的のため特定の場所に行くことを認める許可書で、往路、復路とも、攻撃、停船、臨検など一切の妨害を受けない権利を有する)が交付され、航路、航行日時などが指定された。
 阿波丸は、神戸港において救恤輸送船であるという識別のため、船体をそれまでの戦時色の灰色から緑色に、両舷四カ所、煙突の両側面、ブリッジ、第二ハッチ、第五ハッチは濃い緑色に塗り替えられ、その上に巨大な白十字の標識マークが描かれた。さらに、夜間にはそれらを煌々と浮かび上がらせるサーチライトやイルミネーションなどの照明装置が取り付けられ、千トン余りの救援物資(食糧、医薬品、衣服、書籍、郵便物)が積み込まれる間に、船倉内に特別金庫が設置され、タイ向けの金塊四十箱(約一トン)が積み込まれた。
 予定より一日早い一月三十一日、阿波丸は北西の季節風が吹き荒れる冬の瀬戸内海を西下し、門司港に向かった。
  神戸港を発航し、播磨灘を三時間も走れば、そこは備讃瀬戸、阿波丸が二浬を航行するわずか十五分間ほどであったが、浜田松太郎の生まれ故郷小豊島が、右舷北五浬の海上にその姿をあらわす。
 浜田が、故郷小豊島を見た最後であった。
  呉軍港において阿波丸に乗船していた二十四名の船舶警戒兵は下船し、装備されていた大砲二門と高射砲一門、船尾に搭載されていた四個の爆雷が撤去され、インドシナ、マレー、ビルマ方面で陸軍が必要としていた自動車部品千七百箱、発動機など二百機分の航空機材と弾薬二千箱、各種軍需品六百トンが積み込まれた。それとともにアメリカ海軍によって臨検や捕獲のおそれがある時には、自沈できるよう阿波丸の船底に自爆装置が取り付けられた。
  大本営は、当初の目論見通り安導券という絶対安全な航行の保証を受けている救恤輸送船阿波丸に、南方戦線へ送る軍需物資を積み込み、密かに運ぼうとしたのである。
  二月十七日、阿波丸は門司港を出港し、台湾の高雄に向かった。二十日、台湾高雄入港、二十二トンの救援物資を荷揚げ。二十二日、香港に入港、四十一トンの救援物資を荷揚げ。二十五日、サイゴンに入港した。
 
サイゴンでは二百二十トン余りの救援物資を荷揚げするかたわら、密かに積み込んでいた自動車部品、発動機など航空機材と弾薬、各種軍需品が荷揚げされた。
  シンガポールの第三船舶輸送司令部(司令官稲田正純陸軍中将)は、第三方面軍(司令官土肥原賢二陸軍大将)と連絡をとり、軍属と身分を偽った陸海軍人、石油やアルミなどの技術関係軍属、外交官、司政官、遭難船員、一般邦人など合計千八百五十六名の便乗者と、航空機用燃料、錫、生ゴム、水銀、ボーキサイトタングステン、アンチモニーなどの軍需物資九千八百十二トンを阿波丸に積み込み、日本へ向かうよう浜田船長に命じた。
   二十八日、サイゴンにおいて米や電気機械を積み込み、乗り組んでいた商船を沈められた四百八十名の遭難船員を乗船させた阿波丸は、シンガポールに向かった。
 三月四日、シンガポールで五百トン余りの救援物資と、タイに引き渡す金塊一トンを荷揚げをするとジャカルタに向かい、バンドンやジャワ島の捕虜のために残り二百トン余りの救援物資を荷揚げするかたわら生ゴムを積み込んだ。
  阿波丸の、連合国軍の捕虜に救援物資を運ぶという任務は終わった。後は日本に帰るだけであった。
 三月十八日、阿波丸はバンカ島ムントクにおいて、パレンバン油田から送られてきた航空機用及び艦船用燃料二千五百トン、錫、タングステン、石油掘削機械などを積み込み、帝国石油昭和電工日本軽金属古河鉱業などの社員六百五十人余りを乗船させた。
 二十四日、シンガポールに入港。生ゴムと錫が阿波丸の船倉に積み込まれるとともに、内地へ帰る大東亜省の竹内新次官、東光武三政務課長、外務省の山田芳太郎調査局長、ビルマ政府最高顧問である小川郷太郎など東南アジアの諸国に駐在していた司政官を初めとして、軍属と身分を偽った陸海軍人、石油やアルミなどの技術関係軍属、外交官、遭難船員、一般邦人など便乗者が続々と乗り込んできた。
 浜田船長以下阿波丸の乗組員百四十八名には、船の重心重量(トリム)の算出、それに伴う船倉の一万トンからの軍需物資の積み替え、燃料、心臓部ともいうべきディーゼル機関の整備、二千人の寝る場所、食料、飲料水の積み込み、仮設トイレなどの問題などが山積していたが、浜田船長と乗組員の不眠不休の努力が実を結び、三月二十八日午後一時、日本へ唯一安全に帰れる希望の船阿波丸は、シンガポール港ケッペル桟橋を静かに離れた。
 千八百五十五名の便乗者によって、阿波丸の船倉はもとより廊下や上甲板まで、人と荷物で埋め尽くされていた。
 シンガポール出港後、阿波丸は、オーバーロードの乗客と貨物のため戦時満載喫水線を超えながらも、十八ノットの速力を維持するために二基のディーゼル機関をフル回転させ、ひたすら北上を続けた。
  四月一日、エイプリルフールのこの日は、奇しくも沖縄本島上陸作戦開始の日であった。
 午後十一時、哨戒作戦に従事していたアメリカ海軍第十七機動部隊所属の潜水艦「クィーンフィッシュ」のSJ型レーダーが、一万七千ヤード先を十六ノットの速力で北上する艦影をとらえた。
 単艦航行であり、その速力から駆逐艦と判断したクィーンフィッシュの艦長チャールズ・E・ラフリン中佐は、救恤輸送船であるという識別のためイルミネーションを煌々と点灯し、緑色に塗られた船体と煙突に描かれた白十字をサーチライトで照らしながら航行する阿波丸に三千六百ヤードという距離にまで忍び寄り、艦尾魚雷発射管から照準を海面下三フィート、それぞれ一・五度の角度にセットした四本の魚雷を発射した。
 午後十一時三十分、台湾海峡澎湖島西北海上(北緯二十四度十五分、東経百十九度十九分)において、四本の魚雷を左舷に受けた阿波丸は、青白い閃光を発しながら真っ二つに裂け、周波数五百KCによる遭難信号(SOS)を打電することなく、浜田松太郎船長以下二千三名(内三十六名の婦人と十四名の子ども)の乗客乗員とともに海中に没した。
  阿波丸は、優美な船体と楼閣を思わせるどっしりとした船橋、舷側には三列に並んだ丸窓、船体前部と後部にそそり立つマストを備え、積荷と旅客を目的地まで快適に運ぶ新鋭高速貨客船であったが、分厚い装甲に覆われた軍艦と異なり、四本も、それも一度に魚雷攻撃を受ければひとたまりもなかった。
 二千名以上の乗客乗員(大部分が非戦闘員)が一瞬のうちに命を落としたのは、一九一二年四月十五日、北大西洋において氷山とぶつかって沈没した大型豪華客船タイタニック号の千五百二十三人、一九一五年五月七日、アイルランド海域でドイツのUボートに撃沈されたルシタニア号の千百九十八人という犠牲者よりも多く、阿波丸の生存者がクィーンフィッシュに助け上げられた一等司厨員の下田勘太郎ただ一人であるという惨劇は、日本商船海難史上最大の、そして一九一六年(大正五年)以降の世界の商船海難史上最大のものであった。
   
森川が畏敬の念を持って浜田に接するように、浜田もまた四等水兵から飛行練習生を経て海軍航空廠や川西で二式大艇のテストパイロットを務めるまでになった同郷の森川の、その人となりを認めていた。
「四海からは、陸軍では高橋坦(中将)さん、海軍では鷹尾卓海(大佐)さんがいましたが、民間人では日本郵船で外国航路の船長をしていた浜田松太郎さんがいました。浜田さんは、これは人物でした。惜しいことに鷹尾さんと同じ終戦の年に、船長を務めていた阿波丸とともに亡くなりました」
 森川は、浜田松太郎を追想して、こう語っている。