旧制第六高等学校柔道場へ行って来ました!!

旧制第六高等学校柔道場へ行って来ました!!
 
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 天下の名園、岡山後楽園の近くに第六高等学校跡があります。高等学校といっても、今の高等学校ではありません。戦前、番号を付された旧制高等学校は、第一(東京)、第二(仙台)、第三(京都)、第四(金沢)、第五(熊本)、第六(岡山)、第七(鹿児島)、第八(名古屋)と八校存在していた。これらは「ナンバースクール」とよばれ、ほかの高等学校とは格がちがうとされていた。旧制第六高等学校(きゅうせいだいろくこうとうがっこう)は、明治33年3月に岡山県岡山市に設立された官立高等学校。略称は「六高」(ろっこう)。教育内容は現在の大学教養課程に相当する。
 
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旧六高正門、現在岡山県立岡山朝日高等学校正門となっている。
 
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旧六高柔道場
 
 大正八年一月三十日、玄関四坪半、左右の脱衣室各六畳、稽古場百十九畳、師範席六畳、外に一坪の濡縁など総坪数七十四坪、総経費九千七百六十八円の新道場(現・国指定登録有形文化財)が竣工した。新道場には、他校の多くの道場は剣道部と柔道部が一棟の中で稽古をしているか、または四高の無声堂のように、剣道、柔道、弓道などの複合武道場である。六高の新道場は柔道部専用とし、採光は明るく、通風をよくするために窓を大きくする。七間に八間半の稽古場の床は、四高の無声堂と同じく柔道部員への衝撃を減少させる仕組みとして百四個のスプリングで支える。道場正面には、三間に一間(六畳)の師範席をもうけるなど、松尾哲太郎柔道部部長の斬新な発案が生かされていた。
 現在は岡山朝日高等学校柔道場として使われている。
 
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  六高の校舎は、昭和20年6月の岡山大空襲でほとんどが焼け落ちましたが、幸いにもこの柔道場は無傷で残ったとのことでした。(昭和23年国指定登録有形文化財)
 
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  柔道場を案内してくれた副校長さんによると、旧制高校出身の人がテストパイロットと同じく道場を見せて頂きたいと見学にくるそうで、4月には新日鉄の三村明夫会長が来たそうです。
 
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 柔道場の壁には歴代部長(教授)や師範、明治37年からの部員の木札がかけられていた。
 六高をはじめとして旧制高校出身者が、この道場に来て木札を見て、感激の余り涙ぐむ人もいるそうです。
 
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六高柔道部第二代師範岡野好太郎講道館柔道十段の木札。
 
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岡野好太郎講道館柔道十段
 
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 岡野先生の教え子で永野重雄の木札
 
 永野 重雄(ながの しげお)は日本の実業家島根県松江市生まれ広島市育ち。新日鉄会長、日本商工会議所会長などを歴任し、日本財界の雄として活躍した。戦後日本を代表する経済人の一人。
 
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 テストパイロットが小学生の頃、家から300メートルほどのところに小さな接骨院があり、そこの先生は姿形から「カバさん」とよばれていた。カバさんこと岡野好太郎さんは、近所の人から柔道の強い人といわれていたが、大人しい人で、小学生は岡野先生を見つけると「カバさん」と声をかけたものであった。岡野先生は、仕事が終わると近所の小学生や青少年に柔道を教えていた・・・
 
 この間、土庄町生涯学習大学というのがあり、カバさんこと岡野好太郎先生の話があるというので聞きに行った。講師は、岡野先生最後の教え子で名古屋大学名誉教授,元日本外科学会会長の二村雄次という先生であった。二村先生から、カバさんこと岡野好太郎さんのことを聞いて、岡野先生は戦前に岡山の第六高等学校、名古屋の第八高等学校で柔道師範をしていた講道館十段という偉い人であったということを知った・・・
 
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