鳴門ドイツ館・賀川豊彦記念館へ・ずっこけテストパイロット厄落としの旅・④

鳴門ドイツ館・賀川豊彦記念館へ
ずっこけテストパイロット厄落としの旅・④
 
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日和佐をあとに、前から行ってみたいと思っていた鳴門ドイツ館へ向かいました・・・ 
 
 
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板東俘虜収容所で、ベートーベン第九のふるさととは・・・ 
 
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20年ほど前、中村彰彦氏の『二つの山河』を読んで、主人公の松江豊寿の生き方に感銘を受けたが、それ以上に、世間一般に知られた偉人、名を成した人ではなく、埋もれた逸材に焦点をあてた小説というものもあるのだなぁー、と思った。一度、この板東俘虜収容所跡を訪ねたいものだと思っていた・・・
 

(まつえとよひさ) 
        大正3年に勃発した第一次世界大戦に日本は参戦し、ドイツ領の膠州湾、青島及び膠済鉄道全線を占領し、海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領しました。ドイツ兵捕虜は4700人余りにのぼり、その多くは日本に移送されました。板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)はそのうちの一つです。鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)にありました。
 板東俘虜収容所の所長は松江豊寿大佐です。以下は松江大佐の口癖です。
「ドイツ人も祖国のために戦ったのだから」
 松江大佐は捕虜全員を集めたとき以下のように訓示しています。
「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島で、最後まで勇敢に戦ったが、利あらず日本軍に降伏した。私は諸君の立場に同情を禁じえない。諸君は自らの名誉を汚すことなく、秩序ある行動をとってもらいたい」
 そして松江大佐は驚くような事をし始めます。収容所の正門前に80件もの捕虜たちが経営する店を出したのです。仕立て屋、理髪屋、靴屋、写真館、製本屋、アイスクリームの販売店、家具店などのほか、音楽教室、楽器修理、金属加工や配管工事の店・・・松江大佐は捕虜たちの多くは職業軍人ではなく、手に職をもち、青島や東南アジアで働いていた義勇兵であることを知っており、彼らの知識や技術を活かしたいと考えていたのでした。
 捕虜収容所の前の土地7000坪を借り上げて運動場を作り、捕虜たちはサッカー場やテニスコート、バレーコート体操場、ホッケー場などを造成します。空き地には鶏舎や菜園が作られ、ジャガイモやトマト、キャベツ、玉ねぎなどが栽培されます。収穫物は収容所が買い上げ、捕虜たちの食事として給されました。
 捕虜たちは吉野川や櫛木海岸で水遊びや海水浴を楽しみます。これを知った陸軍省は激怒。しかし松江大佐は「あれは足を洗わせていたもので、彼らはつい泳いでしまっただけであります」と言ってはぐらかします。それで櫛木海岸で行われえる水泳大会を「足洗い大会」と称して捕虜と地元民がお祭りを行うようになります。
 捕虜たちの外出は引受人さえいれば比較的自由で、地元民はドイツの農業技術や洋酒製造、標本作成、植物採集、気象観測、設計建築、石鹸の作り方、染色などを学び、ドイツ兵捕虜は日本の養蚕や稲作、藍作や焼き物などを学びます。地元の青年たちが西洋音楽を習いたいという願いを聞いた松江大佐はエンゲル・オーケストラのリーダー、パウル・エンゲルを紹介し、音楽教室を開きます。日本で初めてベートーベン交響曲第九が演奏されたのはこの板東俘虜収容所です。
 やがて停戦協定が結ばれ捕虜は日本を去ることになります。松江大佐の命令遵守に感謝するという言葉に対し、通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーはこう答えました。
「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう」
        それから50年のときを経た昭和47年(1972年)、多くの元捕虜たちから寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成しました。この板東俘虜収容所についてはドイツ人捕虜のお墓を13年守り続けた日本人主婦の話やフランクフルトで「バンドーを偲ぶ会」が行われたなど数々のエピソードがあります。
*                               JJ太郎さんのブログ参照
 
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土産に買ったドイツの定番酢キャベツの瓶詰
 
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ドイツのソーセージ、ビールは飲みたくなるので買いませんでした。
 
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ソーセイジと酢キャベツ、ドイツへの旅を思い出しました。
 
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続いて鳴門賀川豊彦記念館へ・・・
 
 神戸出身。回漕業を営む賀川純一と芸妓のかめの次男として生まれる。満4歳の時に父が病死し、母もその後間もなく病死したため、徳島の父の正妻に引き取られ養育された。徳島中学在学時に米国長老派のローガン、マイヤース両宣教師と出会う。とりわけ、マイヤース夫妻から受けた影響は大きく、生涯精神的かつ財政的な援助を受けた。1903(M36)兄の放蕩で賀川家が破産、叔父の家に引き取られる。翌年兄が死亡。こうした窮境の中でキリスト教信仰に導かれ、'04マイヤースから受洗。05明治学院高等部神学予科に入学。図書館に所蔵されていたあらゆる本を読破したといわれる。07新設の神戸神学校に転校。この頃、重度の肺結核を患い入院し、医師から二度も死を宣告される。'09.12.24「どうせ死ぬのなら、自殺する勇気をもってすべてに向かって行こう」と貧民に伝道と奉仕をと決意(この時21歳)。神戸市茸合区新川のスラムに居を移し、路傍伝道を始める。以後、23(T12)関東大震災救援のため東京へ移住するまで、約10年余り新川のスラムに住み、伝道と貧民救済などの活動の拠点とした。この間、'14'17米国プリンストン大学に留学し、進化論を中心とする生物学と神学を学ぶ。'15渡米前に託していた、新川での体験に基づいたスラム貧民の状況の独自の分析を著した『貧民心理の研究』が出版される。新川のスラムでの活動では、賀川の姿勢に共感した馬島僴(18-2-56)、タッピング・ヘンリー(-1-12)、タッピング・GF(-1-12)らの協力を得て、キリスト教の伝道・救済事業・無料巡回診療に尽くす。'17帰国し、友愛会に参加。'19個人的慈善的事業ではなく労働者の組織的社会運動によるために、鈴木文治らと友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となる。「救貧から防貧へ」の移行である。消費者と生産者の互助をはかる消費組合共益社を設立、会長に衆院議員の今井嘉幸を就任させる。これがわが国の生協の始まりとなる。同年、牧師の資格を得る。'20自伝小説の『死線を越えて』が1年間で100万部、通算400万部の大ベストセラーとなる(大正時代に最も売れた本)。この本で得た印税は、困窮した労働者らとその家族のためにまわしたという。
 賀川はキリスト者として貧民救済と貧民の霊的救済を目的に「貧民窟」に移住し救霊団の事業を展開してきたが、救済事業だけでは貧民は救われないとして、「貧民窟」の現実を衆知し、「貧民」のいない社会をつくることだと考えるようになった。労働者が労働の報酬を正当に受けるような社会にするための変革をするには、労働者の団結による労働組合運動が必要だと痛感し、労働争議に関わるようになる。労働者賛美とともに、女性賛美も強く、当時展開されていた母性保護論争にも関心を示し、交流のあった平塚らいてうに近い見解を公にしている。この背景には、'19夏に名古屋新聞と中京婦人会が主催した婦人夏季講習会に講師として参加したことがきっかけで平塚らいてうと知り合い、新婦人協会のアドバイザー的存在として支えたからである。
 '21.7.10神戸にて川崎、三菱両造船所の労働者35千人を指導して、日本初の街頭デモが賀川の指導で行われた。賀川の労働運動に関する考えは、主義や思想よりも経済問題の範囲内で発達させようとするものであった。しかし、今回のデモでは、反権力闘争の性格をもち、激しい権力弾圧を受けることとなった。714日県知事の要請で軍隊が出動、29日には警察隊と衝突によって死者が出て、争議団は賀川を含む175人のデモ参加者が逮捕された。その後、争議団は会社側の激しい切り崩しに耐え切れず、812日に「惨敗宣言」を発表した。これにより、解雇された活動家は約1300名であった。しかし、この争議が日本の労働運動に与えた影響は大きく、これによって初めて労働者団結の威力を示し、労働者の階級意識を急速に高めることとなった。一方、敗北を機に、労働運動内部にサンディカリズム無政府主義マルクス主義の思想が急激に広まり、ギルド・ソシアリズムの賀川は労働運動から手を引いていった。敗北から二ヶ月後の10月、杉山元治郎(同墓)らと日本農民組合の結成を画し、翌年、組合の創立大会を開催した。 立体農業を提唱、各地に農民福音学校も作るが、組合の組織が拡大していくと、労働組合運動と同様、急進的なグループが浸透、賀川は農民運動からも徐々に撤退していった。
 労働組合の失敗は消費組合を作らなかったからと考え、既に'19設立していた購買組合の充実発展に力点が置かれた。'21労働者のために神戸購買組合を結成、これはその後一般市民を加え、協同組合として発展(現・コープこうべ、旧・灘神戸生協)。関東大震災の時、急きょ東京に駆けつけ、現在のボランティアの先駆けともいうべき目覚しい救援活動を行うが、それを機に本所セツルメント事業を設立、各種の社会事業を全国に起こしていった。この間、'24政治研究会執行委員をへて、'26労働農民党中央執行委員となったが、同年末の右派脱退とともに辞す。以後は主にキリスト教の布教活動・精神運動に専念従事した。
 '26'34(T15-S9)神の国運動」を全国に展開。この間、'28(S3)中ノ郷質庫信用組合を設立。'32新渡戸稲造(7-1-5-11)らと共に東京医療利用購買組合を設立。'35ニューヨークで『友愛の経済学』の講演を行う。'38財団法人雲柱社を設立。'40反戦容疑のため渋谷憲兵隊に検挙され留置される。
 '41.4日本の中国に対する侵略が泥沼化していた時期、日本のキリスト教界代表として、阿部義宗 斉藤惣一 河井道らと共に、アメリカの教会に平和使節団として訪米。その際、首相の近衛文磨から内命を受け、使節団が帰国した後もアメリカに残り、ルーズベルト大統領との和平の交渉にあたった。しかし、日本軍が新たに佛印に進攻するなどがあり交渉は進まず、81日にサンフランシスコを出航する最後の交換船龍田丸に乗船、帰国の途につく。その時に詠んだのが「悲しみを忘れて渡る太平洋 平和のつなぎ胸にひそめて」である。同年12月賀川が松澤教会で1日から一週間、平和のために祈梼会を開き、徹夜の祈梼会が終わった128日に日本軍は真珠湾攻撃をし太平洋戦争が勃発した。戦争突入後は、天皇に対する強い親近感を抱き、米英を非難、日本の戦争行為を正当化する文章を公にし、反米放送を行うなど戦争協力へと傾斜していく。
 敗戦後、'45東久邇宮内閣の参与となり、「一億総懺悔」を提唱。また社会党の結成に協力。 世界連邦建設同盟(世界連邦運動協会)および国際平和協会を設立。日本生活協同組合同盟が結成し、初代会長に就任した。'46勅撰貴族院議員となるが、連合軍司令部(GHQ)の承認が得られず留保。キリスト新聞社を設立。'49「新日本建設キリスト運動」を起こして全国各地で大衆伝道集会を行う。国際的舞台でも講演活動を展開し、ヨーロッパやアメリカなどでも伝道活動を行った。また、イエスの友会、キリスト新聞社、世界連邦運動などを起こす。
 主な著書に詩集『涙の二等分』、小説『一粒の麦』などがある。日本の救い、世界の平和という祈りを絶語に逝去。享年71歳。
 1913.5.27(T2)神戸スラム救済事業に奉仕活動で参加していた芝ハル(春子)と結婚。ハルも社会事業家として活躍した。長男の賀川純基(同墓)は教会音楽家としての作曲活動により多くの作品が残っている。純基の妻の道子は玉井太郎の娘。'44徳憲義牧師の媒酌人のもとで結婚している。純基・道子の子は賀川督明。
 
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小豆島の属島に産業廃棄物不法投棄で有名になった豊島がある。この島は、名前の通り豊かな島で、戦後間もない昭和22年、賀川豊彦のすすめで、ミルクとハチミツの採れる豊島に、戦災などで親が養育できない子どもたちのための豊島神愛館が開所しました。現在は、生後1か月から3歳の乳児が献身的な愛と奉仕のもとすくすくと育っています。
この賀川豊彦記念館も、ぜひ一度訪れたいと思っていたところで、記念館内は写真撮影禁止とのことですので、残念ながら写真はありません
 
コスモポリタンな日本人がいました。テストパイロットも、ちょっとは頑張らなければと心を新たにしました。
 
それでは厄落としの旅・その⑤へと続きます
次は、琴平の金比羅さんを紹介します。乞うご期待!!
 
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