日本郵船が誇る豪華客船の飛鳥Ⅱが 小豆島の沖合に停泊しました。 テストパイロットは、「阿波丸」を思い浮かべました。

日本郵船が誇る豪華客船の飛鳥Ⅱが
小豆島の沖合に停泊しました。
テストパイロットは、「阿波丸」を思い浮かべました。

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 豪華クルーズ船である日本郵船の「飛鳥Ⅱ」が小豆島坂手港沖に停泊して、乗客の一部が小豆島観光をするとメディアやフェイスブックに掲載されておりましたので、見に行きました。
 沖合に、大きな船が停泊していました。ちょうど神戸からのジャンボフェリーが坂手港に向かっていました。 

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 飛鳥II(あすかツー)は、日本郵船の子会社、郵船クルーズが所有・運航している外航クルーズ客船。「飛鳥」の後継船にあたる、日本最大の客船。
  • ■船籍/日本
  • ■全長・全幅/241m×29.6m
  • 総トン数/50,142GT
  • ■喫水/7.8m
  • ■航海速力 最高21ノット
  • ■横揺れ防止装置/フィンスタビライザー
  • ■乗客数/872名
  • ■乗組員数 約470名
  • ■販売客室数/436室(全室海側)
  • ■ベランダ付き客室比率/60%
  • 船籍港/横浜





 凄い客船だなぁー、と眺めていたテストパイロットの脳裏に、かつて四海老人会の会長で、戦前に川西航空機の名テストパイロットだった森川勲さんから聞いた、小豊島出身で日本郵船きっての名船長と謳われた浜田初太郎さんと「阿波丸」のことが浮かんできました。
 
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                               「阿波丸」

「阿波丸(アワマル)」(船籍港・東京、本船番号・四九八九四、登記番号・四五六五)
  船の等級、逓信省一級船遠洋航路
 船の種類、汽船
  船型、スターナー軽構船
  船質、鋼
  竣工、昭和十八年三月五日
  所有者、日本郵船株式会社
  製造者、三菱重工業株式会社長崎造船所
  総トン数、一万千二百四十九・四〇トン
  積荷才量(グレーン)、一万五千五十九・六九立方メートル
  積荷才量(べール)、一万三千八百五十三・一三立方メートル
  総長サ、百六十三・五五メートル
  幅、二十・二メートル
  総深サ、十二・六メートル
  乗客数、一等客三十七名
  乗組員室、五十 
 船艙、六
  船艙口数、六
  マスト、二本
  ブリッジ、船体中央
  煙突、船体中央に一本
  機関の種類、三菱MS無空気噴油式衡程単動十筩発動機二基
 公称九千六百軸馬力
 正常一万四千軸馬力 
 最強一万六千百四十一軸馬力
  無線電信、送信機(長中波一・短波一)、受信機(長中波一・短波一、長中短波一)
  国際電略、JRMR
 (『阿波丸撃沈』太平洋戦争と日米関係・ロジャーディングマン著・川村孝治訳・日本郵船歴史資料館監修・成山堂書店より参考抜粋)  

  阿波丸は、日本郵船が戦時中に発注した最後の高速貨客船(姉妹船「安芸丸」)であり、太平洋戦争が始まらなければ、豪州航路に就航するはずであった。
 しかし阿波丸は、日本郵船の船である証の「二引き」のファンネルマークを付けた貨客船として就役することはなかった。竣工を迎えると直ちに船舶運営会扱い(C船)となり、戦局が押し詰まった昭和二十年に入ると、日本郵船の誇る商船のほとんどが太平洋の海底深く沈んでいた。
 当然、被害は船舶だけにとどまらない。太平洋戦争中、日本郵船など民間船舶会社の殉職者は六万三百三十一人にも上り、船員の死亡率は、実に陸海軍の二倍以上の四十三パーセント余り(陸軍二十一パーセント・海軍十六パーセント)、ほぼ二人に一人という犠牲を出していたのである。
 昭和二十年一月、阿波丸の船長を務める浜田松太郎は、日本の占領下にある連合国軍の捕虜や抑留者に救援物資を運ぶ救恤輸送船の任務に就くよう命じられた。
 浜田は、明治十一年生まれ、すでに七十歳を迎えようとしていた。戦争が始まらなければ、とっくの昔に船を下りて悠々自適の余生を楽しんでいたはずであった。しかし、戦況の悪化とともに鰻登りに増え続ける船員の殉職は、浜田のような老練な商船乗りが陸で暮らすことを許そうとはしなかった。
 昭和十九年十月、アメリカ及び連合国軍は、日本政府に対して東京駐在のスイス公使館を通じ、「日本本土ヤ日本ノ占領下ニアル十七万人余リノ捕虜ヤ抑留者(アメリカ軍捕虜と市民約一万五千人・連合国軍捕虜と市民約十五万人)ニ対シテ食料ヤ衣服ナドノ救恤(救援)物資ヲ配布シテ欲シイ」と申し入れてきた。
 十二月中旬、アメリカ及び連合国軍から、「米国及ビ連合国軍ハ救援物資ヲ運ブ輸送船ニ対シテ絶対ニ攻撃シナイ。臨検ヲシナイ。何ラ干渉ヲシナイ」という保証を取り付けた日本政府は、救恤輸送船として阿波丸を使用することを決定し、この旨をアメリカ政府に伝えるとともに、「救援物資ヲ運ブ阿波丸ニ対シテ、絶対ニ攻撃シナイ。臨検ヲシナイ。何ラ干渉ヲシナイ」という絶対安全な航行の保証を再度求めた。
  この任務に阿波丸が選ばれたのは、残り少ない大型の最新鋭高速貨客船であり、搭載されている二基の三菱MSデーゼル機関は、貨客満載状態でも十八ノットの速力で航行することが出来、浜田松太郎船長以下乗組員百四十八名は老練な者が多く、その船捌きは郵船きってと謳われていたからである。
 阿波丸は竣工して以来、幾多の修羅場をくぐり抜けながら太平洋を駆けめぐっていた。昭和十八年十一月、阿波丸はシンガポールの西埠頭において軍需物資を積み込み中に抗日ゲリラによって船尾に爆弾が仕掛けられたが、いち早く発見して事なきを得たばかりでなく、日本に向かって航行中、二度にわたるアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を、浜田は巧みな回避運動でことごとくかわし、無事に日本まで帰り着いたのであった。
  いつしか商船乗りの間で阿波丸は、「幸運の船」と呼ばれるようになっていた。
  その阿波丸に、絶対安全な航行の保証をアメリカ政府から認められた安導券(ギャランティ・フォア・セーフテイー・交戦国が敵国人または船舶が、ある目的のため特定の場所に行くことを認める許可書で、往路、復路とも、攻撃、停船、臨検など一切の妨害を受けない権利を有する)が交付され、航路、航行日時などが指定された。
 阿波丸は、神戸港において救恤輸送船であるという識別のため、船体をそれまでの戦時色の灰色から緑色に、両舷四カ所、煙突の両側面、ブリッジ、第二ハッチ、第五ハッチは濃い緑色に塗り替えられ、その上に巨大な白十字の標識マークが描かれた。さらに、夜間にはそれらを煌々と浮かび上がらせるサーチライトやイルミネーションなどの照明装置が取り付けられ、千トン余りの救援物資(食糧、医薬品、衣服、書籍、郵便物)が積み込まれる間に、船倉内に特別金庫が設置され、タイ向けの金塊四十箱(約一トン)が積み込まれた。
 二月十七日、阿波丸は門司港を出港し、台湾の高雄に向かった。二十日、台湾高雄入港、二十二トンの救援物資を荷揚げ。二十二日、香港に入港、四十一トンの救援物資を荷揚げ。二十五日、サイゴンに入港した。
 サイゴンの港で阿波丸を出迎えた日本郵船の松澤直哉によると、
「待望の阿波丸入港の報せに関係者一同岸壁に集まった。平和を象徴するグリーン一色の船体が静かに近づいてきた。私は救恤物資だけでは重量にならないから乾舷は相当に高く、水線下の赤腹がまる見えだろうと思っていたところ、あに図らんやどっしりと船脚を沈めかなりの重量物を積んでいるようにみえる。揚荷は頑丈な箱物が多く中身はわからぬが重いものであることに違いない。しかしなにを揚げようとこの場合われ関せず、ただトレジャー・ルームから取り出し、スリングで捲きおろす品物が大切なのであることを耳打ちされていたのだ。」(『仏印回想録』・松澤直哉・海文堂出版より抜粋)
 シンガポールの第三船舶輸送司令部(司令官稲田正純陸軍中将)は、第三方面軍(司令官土肥原賢二陸軍大将)と連絡をとり、軍属と身分を偽った陸海軍人、石油やアルミなどの技術関係軍属、外交官、司政官、遭難船員、一般邦人など合計千八百五十六名の便乗者と、航空機用燃料、錫、生ゴム、水銀、ボーキサイトタングステン、アンチモニーなどの軍需物資九千八百十二トンを阿波丸に積み込み、日本へ向かうよう浜田船長に命じた。
  阿波丸の、連合国軍の捕虜に救援物資を運ぶという任務は終わった。後は日本に帰るだけであった。
 浜田船長以下阿波丸の乗組員百四十八名には、船の重心重量(トリム)の算出、それに伴う船倉の一万トンからの軍需物資の積み替え、燃料、心臓部ともいうべきディーゼル機関の整備、二千人の寝る場所、食料、飲料水の積み込み、仮設トイレなどの問題などが山積していたが、浜田船長と乗組員の不眠不休の努力が実を結び、三月二十八日午後一時、日本へ唯一安全に帰れる希望の船阿波丸は、シンガポール港ケッペル桟橋を静かに離れた。
 千八百五十五名の便乗者によって、阿波丸の船倉はもとより廊下や上甲板まで、人と荷物で埋め尽くされていた。
 阿波丸は、オーバーロードの乗客と貨物のため戦時満載喫水線を超えながらも、十八ノットの速力を維持するために二基のディーゼル機関をフル回転させ、ひたすら北上を続けた。 

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 阿波丸がシンガポールを発航すとすぐに、アメリカの四発大型飛行艇コンソリデーテッドPB2Yコロナド二機に、二日間にわたって空から監視され、次いで潜水艦による追尾が始まった。この時、コロナド飛行艇は南支那海特有の長濤を蹴立てるようして北上する阿波丸の姿。
 船体を緑色に、両舷四カ所、煙突の両側面、ブリッジ、第二ハッチ、第五ハッチは濃い緑色に塗り替えられ、その上に巨大な白十字の標識マークが描かれいる。

  四月一日、エイプリルフールのこの日は、奇しくも沖縄本島上陸作戦開始の日であった。
 午後十一時、哨戒作戦に従事していたアメリカ海軍第十七機動部隊所属の潜水艦「クィーンフィッシュ」のSJ型レーダーが、一万七千ヤード先を十六ノットの速力で北上する艦影をとらえた。
 単艦航行であり、その速力から駆逐艦と判断したクィーンフィッシュの艦長チャールズ・E・ラフリン中佐は、救恤輸送船であるという識別のためイルミネーションを煌々と点灯し、緑色に塗られた船体と煙突に描かれた白十字をサーチライトで照らしながら航行する阿波丸に三千六百ヤードという距離にまで忍び寄り、艦尾魚雷発射管から照準を海面下三フィート、それぞれ一・五度の角度にセットした四本の魚雷を発射した。
 午後十一時三十分、台湾海峡澎湖島西北海上(北緯二十四度十五分、東経百十九度十九分)において、四本の魚雷を左舷に受けた阿波丸は、青白い閃光を発しながら真っ二つに裂け、周波数五百KCによる遭難信号(SOS)を打電することなく、浜田松太郎船長以下二千三名(内三十六名の婦人と十四名の子ども)の乗客乗員とともに海中に没した。
  阿波丸は、優美な船体と楼閣を思わせるどっしりとした船橋、舷側には三列に並んだ丸窓、船体前部と後部にそそり立つマストを備え、積荷と旅客を目的地まで快適に運ぶ新鋭高速貨客船であったが、分厚い装甲に覆われた軍艦と異なり、四本も、それも一度に魚雷攻撃を受ければひとたまりもなかった。
 二千名以上の乗客乗員(大部分が非戦闘員)が一瞬のうちに命を落としたのは、一九一二年四月十五日、北大西洋において氷山とぶつかって沈没した大型豪華客船タイタニック号の千五百二十三人、一九一五年五月七日、アイルランド海域でドイツのUボートに撃沈されたルシタニア号の千百九十八人という犠牲者よりも多く、阿波丸の生存者がクィーンフィッシュに助け上げられた一等司厨員の下田勘太郎ただ一人であるという惨劇は、日本商船海難史上最大の、そして一九一六年(大正五年)以降の世界の商船海難史上最大のものであった。
 終戦の混乱がようやく収束に向かった昭和二十三年十月、GHQ総司令官マッカーサー大将の政治顧問を務めるウィリアム・ジョセフ・シーボルドより、「棚上げになっている阿波丸の損害賠償請求権を放棄して欲しい」という申入れが外務省に対してあった。
 日本が自発的に救恤輸送船阿波丸撃沈の請求権を放棄するならば、アメリカの対日感情はますます好転し、今後さまざまな援助を続ける上において、きわめて有効であるという趣旨であり、当時アメリカが日本に対して行っていた有償食料援助の借款額を18億ドルから4億9千万ドルへ棒引きする代わりに、日本へ阿波丸の賠償請求権を放棄するよう求めた。アメリカ側の破格な提案に当時の日本政府もこれを了承し、1949年(昭和24年)に日本の国会は、阿波丸への賠償請求権を放棄し日本政府がアメリカに代わって賠償を行う旨を決定したのである。

 「四海からは、陸軍では高橋坦(中将)さん、海軍では鷹尾卓海(連合艦隊戦務参謀)さんがいましたが、民間人では日本郵船で外国航路の船長をしていた浜田松太郎さんがいました。浜田さんは、これは人物でした。惜しいことに鷹尾さんと同じ終戦の年に、船長を務めていた阿波丸とともに亡くなりました」
 森川さんは、浜田松太郎さんを追想して、こう語ってくれた。

 10年ほど前、NHKが「阿波丸事件」という番組を放映し、翌日、小説家の浅田次郎のベストセラーである『シェエラザード』という長編小説をテレビ化して放映した。
 この小説に出てくる「弥勒丸」というのは、「阿波丸」のこと、森田船長は浜田船長のことである。 
 四海地区の、元船乗りのお年寄りからテストパイロットに、「今度、NHKが阿波丸のことを放送する。阿波丸の船長は、私たちの大先輩で小豊島の浜田松太郎さんです。土庄町の人に見てもらいたい。町の行政無線で知らせてはくれないか」と言う電話がかかってきました。
 テストパイロットが町役場にその旨を伝えると、テレビ番組の紹介を行政無線で放送することは出来ない、と言うことでした・・・

 「飛鳥Ⅱ」に乗っているお客さんは、地元小豆島町の町長以下の大歓迎を受けて小豆島を楽しんだとのことです。
 戦後70年、平和な日々が続いています。テストパイロットは、「阿波丸」の悲劇が再び起こらないことを願っています。
 
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