この間、田中河内介顕彰会に行きました(笑み)

この間、田中河内介顕彰会に行きました(笑み)

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 嘉永6年(1853)ペリー来航から、慶応3年(1867)の王政復古の政治的革命までの15年間は、日本歴史上の激動時代・動乱時代として激しい動きをした時期である。この明治維新の夜明け前は、日本が近代国家として誕生する陣痛期であり、そのため、命をかけた「草莽の臣」のはたらきは大きかった。
 ときに文久2年(1862)3月16日、薩摩藩島津久光は藩兵千人を従えて鹿児島を出発した。京都の尊王攘夷急進派は、この久光の上京を機に倒幕への旗上げをしようと待機していた。しかし、久光は急進派を押さえて、公武合体の考えで上京していたのである。4月23日薩摩藩士や諸藩士の尊攘急進派は寺田屋に集結していた。久光は鎮撫使をむけて彼らを上意打ちにした。これが薩摩藩士内の同士打ちとなった「寺田屋の変」である。
 尊王急進派の田中河内介父子とほか3人は大阪から薩摩へ護送すると称し、2船に分乗させ、田中父子を播磨灘で殺害、海上に投棄した。死体は翌日小豆島福田湾内に漂着、他の三人は九州細島港で殺害された。
 田中父子の遺体は福田遠干浜墓地に埋葬されて、消息は30年間不明のままであった。明治25年、田中河内介養孫北村嘉猷が来島し、小豆郡長森遷、福田村年寄三木貫朔(発見検死者)に事情を聞き、田中河内介父子であることが判明し墓碑を建てた。その後、明治32年「田中河内介父子哀悼之碑」を建立。明治36年墓碑を百回忌に雲海寺に移転。明治45年5月殉難50周年記念法要を行い、平成9年1月20日哀悼碑を遠干浜へ移し田中河内介父子の慰霊と顯彰は現在も変わりなく続けられている。

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 小豆島の二つの町の県会議員、町長、教育長、議会議長など偉い人ばかり・・・肩身の狭いテストパイロットです(苦笑)

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 テストパイロットが田中河内介顕彰会に参加する本当の理由は、お寺の本堂で出される昼食のバラ寿司とタコとイカの酢の物がなんとも美味いので、これにつられて参加しております。

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ソーメン汁も、うまい。

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小豆島で獲れたタコとイカとワカメの酢の物

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タコのゆで加減といい酢のきき具合といい、勉強になります。

 幕末、勤王の志士であった田中河内介と子どもは乗っていた薩摩藩の船の上で惨殺され、死骸は播磨灘に投棄された。その死骸が小豆島福田村の浜辺に流れ着いた。身元のわからぬ二人を哀れと思った村人は墓地に埋葬したのである。
 昔の小豆島の島民は、心が優しかったのだろうと思いました。

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