昭和天覧試合・逆二刀の剣士登場

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   剣術は、万却の昔から連綿と、或いは幕末に林立したような流派を含めると五百あまりあったといわれているが、二刀流と聞けば、だれもがまず思い浮かべるのは、二天一流の開祖である宮本武蔵であろう。
 武蔵の肖像画を見ると、左手に小刀、右手に太刀を持っている。これを、「正二刀」といい、左手に太刀、右手に小刀を持つのを「逆二刀」という。
  昨今の剣道の試合、全日本剣道選手権大会や国民体育大会などで、長短二本の竹刀を遣う二刀流の選手を見かけることはまずないが、大正末から昭和のはじめにかけて、幾多の正二刀、逆二刀の選士が、中等学校剣道大会、大学高等専門学校剣道大会、明治神宮国民体育大会、さらには昭和四年、九年、十五年と、戦前三度挙行された「昭和天覧武道大会」などに出場して大いに活躍した。
 そのなかでも昭和九年五月五日、宮城内濟寧館において開催された昭和の御代二度目の天覧試合ーー「皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会」府県選士の部に、弱冠二十一歳の香川県の青年が逆二刀をもって出場、内地の一道三府四十三県の外、外地の朝鮮、台湾、関東州、樺太などの予選を勝ち抜き名誉の代表選士となったあまたの強豪から、試合開始一分以内に、すべて二本勝ちするという圧倒的な強さで、天覧の決勝戦まで勝ち上がった。
 逆二刀の選士の名は、藤本薫という、香川県香川郡仏生山町にある三等郵便局の通信事務員であった。