「石の島」小豆島に、今に残る大坂城残石

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         大坂城小瀬原丁場跡より小豊島、豊島を眺める。
 
   小豆島は、古くから花崗岩の採石業が盛んで、島のいたるところに丁場とよばれる石切場があり、江戸時代はじめの大坂城築城の際には、加藤清正細川忠興片桐且元など七大名が島の各地に陣屋をもうけ、巨石に「矢」とよぶ鉄製の楔を打ちこんで石垣用に小割りしたものを、修羅(木製の大型のソリ)に乗せ、牛や人力で海岸まで運び、轆轤を使って船や筏に積みこみ、海路大坂へと運びました。
 大坂城の、加藤清正が小豆島から運んだと伝えられている京橋門枡形石(通称・肥後石)などは、露出している部分だけでも縦五・五メートル、横十四メートル、畳三十畳あまりにもおよぶ巨石である。大坂城の石垣巨石ベストテンのなかに、小豆島から伐り出されて運ばれたものは、この「枡形石」をはじめとして「大手門見付石」、「大手二番石」、「京橋口二番石」、「大手三番石」と実に半数にもおよんでいます。
  このように、小豆島から伐り出された花崗岩大坂城の石垣に、属島の豊島から産する豊島石が京都の桂離宮に使われたように、良質の石材を産する小豆島は、江戸時代には「石の島」ともよばれていました。
 
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  巨石の石の目に穿がかれた矢穴、これに「矢」と呼ばれる鋼鉄製のくさびを打ち込んで四角に割る。ここまで矢穴を刻しながら、なぜ放置されたのかは不明ですが、歴史のロマンを感じさせます。
 この石は、地元小豆島でも、知らない、現物を見たことのない人がほとんどです。
 この石の上から、源平合戦の讃岐屋島、鬼ヶ島伝説の女木島、男木島、さらには塩飽の島々を遠望できます。
 
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 大石を割った後に出る「コッパ」と呼ばれる石片。一つの矢穴は約7寸(21センチ)、どのような巨石であったがうかがい知れるでしょう。
 大坂城の石垣に、この小瀬原丁場の残石に刻された加藤家の「蛇の目」の紋と同じものがあります。