写真集、作りました。
テストパイロットは貧乏だから、自分で八月に出版する「奇跡の医師・頓宮寛」に先立ち、写真集を自分で作りました。
明治35年9月、頓宮寛は創設なって2年目の第七高等学校造士館第三部(医科)に入学。
頓宮ら医科大学第三十五回卒業予定者一同九十九名(一名在学中死亡)は、『おもひで』と書かれた表紙は緞(どん)子(す)貼り、見返りに「東京帝國大學醫科大學在學記念」・「明治四十二年十二月東京帝國大學醫科大學第卅五回卒業生一同在學記念之為此帖ヲ作リ謝恩ノ印ニ諸先生ニ呈シ記念之為各自ニ領ス」と書き記した八十ページにおよぶ豪華な写真入り在学記念のアルバムを作製した。
これら頓宮の同窓生のなかで、成績トップは、日本腎臓学会初代会長となった佐々(さつさ)廉平(れんぺい)であった。
佐々廉平のことを、医学者の沖中(おきなか)重(しげ)雄(お)東大名誉教授が『私の履歴書』で、次のように述懐している。
「佐々廉平先生。東大を一番で卒業されたが、ご家庭のつごうで開業されたそうだ。しかし臨床の研究では大学人をしのぐ業績を上げておられる。野にあっても心構えひとつで医者の鑑になられることを身をもって証明しておられる」注⑥
人口に膾炙した卒業生の筆頭は、本業の精神科医ではなく、歌人として名高い齋藤茂吉、「荻野式受胎調節法」で著名な荻野久作の二人であろう。
佐々廉平のことを、医学者の沖中(おきなか)重(しげ)雄(お)東大名誉教授が『私の履歴書』で、次のように述懐している。
「佐々廉平先生。東大を一番で卒業されたが、ご家庭のつごうで開業されたそうだ。しかし臨床の研究では大学人をしのぐ業績を上げておられる。野にあっても心構えひとつで医者の鑑になられることを身をもって証明しておられる」注⑥
人口に膾炙した卒業生の筆頭は、本業の精神科医ではなく、歌人として名高い齋藤茂吉、「荻野式受胎調節法」で著名な荻野久作の二人であろう。
第一次上海事変の写真
パソコンを使えば、自分だけの本や写真集は簡単に作れます。裏表50ページの写真集の経費は、写真プリント用紙代金2000円、ハードカバーが1500円、プリンターのインク代が500円ほどです。
テストパイロットが、出版社から本を出せるようになったのは、自分で本を作っていたからです。
自分で作った一冊の本。そして、いくらでもやり直せます。
自費出版でワンロット500冊、1000冊、100万、200万円の経費を支払うよりも、自分で作れば一冊4000円程度で本ができます。
お金がないことからはじめた本づくり、楽しいですよ・・・・・