生田春月・「海図の詩」の石碑

生田春月・「海図の詩」の石碑
 
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 壺井栄さんの『桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年』の碑の近くに、昭和5年5月、月明かりの播磨灘に、別府航路の「すみれ丸」から身を投げた、生田春月という詩人の碑がある。
 
  そういえば、昭和41年6月4日夜半、小豆島坂手港から神戸へ向う別府航路から播磨灘に身を投げた八代目市川団蔵という歌舞伎役者がいた。
 
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  甲板にかゝってゐる海図。-これはこの内海の海図だ-じっとそれを見つめてゐると、一つの新しい未知の世界が見えてくる。普通の地図では、海は空白だがこれでは陸地の方が空白だ。たゝ゛わずかに高山の頂きが記されてゐる位なものであるが、これに反して海の方は水深やその他の記号などで彩られてゐる。これが今の自分の心持をそっくり現わしてゐるやうな気がする。今迄の世界が空白となって、自分の飛び込む未知の世界が、彩られるのだ。
 
 
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句碑から生田春月や市川団蔵が身を投げた播磨灘を望む
 
 
生田春月
生年: 明治25.3.12 (1892) ~没年: 昭和5.5.19 (1930)
大正時代詩人,翻訳家。鳥取県会見米子町道笑町に生まれる。佐太郎,いわの長男本名清平。明道尋常小学校から角盤高等小学校に進学,このころ,回覧雑誌に詩作発表明治37(1904)年,父が商売失敗したため一家朝鮮に渡り,この地で辛酸をなめた。明治41年上京,文学修業し,またドイツ語を学んだ。大正3(1914)年,青踏同人の西崎花世と結婚。6年『霊魂の秋』,7年『感傷の春』を出版,詩人の地位確立ハイネ全集など翻訳も多い。しかし生活は貧しく,堺利彦,大杉栄らから虚無的な思想感化を受けた。初期キリスト教的な純情作風から,後期アナーキスト的なものに変わった。生来の優しい性格災いしたものか,三角関係の悩みからともいわれるが,神戸別府行き汽船菫丸から投身自殺した。
                                        朝日日本歴史人物事典より引用