流浪の俳人尾崎放哉終焉の地・南郷庵の朝

流浪の俳人尾崎放哉終焉の地・南郷庵の朝
 
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昨日と同じく穏やかな備讃瀬戸の海と日の出です。
 
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流浪の俳人尾崎放哉終焉の地・南郷庵へと向かう。
『海も暮れ切る』の著者である吉村昭氏の筆になる。
 
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尾崎放哉が朝に夕に使った南郷庵の井戸と通った銭湯「三日月湯」の鏝絵
 
                  生年: 明治18.1.20 (1885)
                 没年: 昭和1.4.17 (1926)
 
尾崎放哉は、大正時代俳人本名秀雄。初号芳哉。鳥取藩士族の末裔として鳥取市立川町に生まれる。信三,仲の次男。東京帝大法学部卒。中学時代より句作始め,荻原井泉水の一高俳句会に参加大学卒業後は東洋生命保険会社に入社し,エリートコースを歩んだが,大正9(1920)年退社。一説には酒癖の悪さのためだといわれる。11年には新設の朝鮮火災海上保険会社の支配人として現地に赴いたが,禁酒の約束を守れず退職,満州(中国東北部)各地を妻と流浪した。帰国後は単身京都の一灯園に入り,下座奉仕生活を始める。13年には智恩院常称寺に移り,井泉水と再会したが,その後も落ち着くことができず諸所の寺を転々とした。14年に井泉水の紹介小豆島土庄町の王子山蓮華院西光寺奥ノ院南郷庵の庵主となる。ここが安住の地となり,貧しいなかにも句作三昧の生活を送った。放哉は大正5年より俳句雑誌層雲』に自由律俳句を投句していたが,代表作とされる短律のものはほとんど晩年に作られている。「咳をしても一人」「墓のうらに廻る」「足のうら洗へば白くなる」。彼は自分存在を,身体感覚を通して表現した。そこに放哉の個性があり,彼の句の持つリアリティーもそこによっている。また彼の残した膨大書簡は,素直端的な表現のなかに等身大の俳人を映し出しているといえるだろう。<著作>『大空』『放哉書簡集』『尾崎放哉全集』<参考文献>大瀬東二『尾崎放哉の詩とその生涯』 (平石典子)
                                                                                                                               朝日日本歴史人物事典
 
 
 
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荻原井泉水が放哉没後南郷庵に建立した石碑・「いれものがない両手でうける」
 
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南郷庵の六地蔵
 
 いつものようにエンジェルロードに向かい、朝陽が気持ちいいので家から300㍍ほど離れた南郷庵をたずねました。
 朝陽が気持ちよく南郷庵を包み込んでいました・・・