楷書の最高峰、褚遂良の雁塔聖教序記

楷書の最高峰、褚遂良の雁塔聖教序記
 
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 テストパイロットは陋屋の玄関に、褚遂良の雁塔聖教序記を掛けている。はじめて来た人は、なにやらうさんくさそうな顔をしてながめている。
 
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  褚遂良は、欧陽詢・虞世南とともに初唐の三大家と称され、この三大家に至って楷書は最高の完成域に到達した。褚遂良は、唐王朝重臣であったが、高宗が武照(武則天)を皇后に立てることを建議した際、褚遂良は強硬に反対した。このことにより武則天の恨みを買い、死刑に処されかけたが、遺詔により死刑は免ぜられた。その代わりとして潭州都督、桂州都督と左遷され、最終的に愛州(現在のヴェトナム中部)にまで流され、そこで死去した。
 
 
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西安大慈恩寺内の大雁塔
 
 建碑は永徽4年(653年)。玄奘貞観19年(645年)に帰朝してインドから持ち帰った仏典の翻訳を進めていた際、太宗は彼の功績に対し「聖教序」(序)の文を作り、また当時(貞観22年)皇太子であった高宗も「述聖記」(記)を作文した。碑文はこの「序」と「記」で、二碑に分かれており、両碑を総じて『雁塔聖教序』と称し、陝西省西安大慈恩寺内の大雁塔に現存する。保存は極めて完好である。
 慈恩寺は太宗が玄奘のために建立したもので、玄奘は永徽3年(652年)この寺院内にインド式建築の大雁塔の建造に着手し2年で完成した。この大雁塔の上層には石室があり、彼がインドから持ち帰った仏典を保管し、その南面にこの「序」と「記」とを褚遂良に書かしめて置いた。しかし、のちにこの塔は崩れ上部を失ったため、長安年間に再建して7層塔にした。その際、最下層の南面の入口の両側に龕室を造り、両碑は東側に「序」を、西側に「記」を嵌めこんだ。今日見られるのはこれである。両碑は同形同大の黒大理石で、碑額は「序」は「大唐三蔵聖教之序」、「記」は「大唐三蔵聖教序記」とそれぞれ2行に書かれ、碑文は「序」は右より、「記」は左より書かれている。それぞれの末行の文によると、遂良は「序」を永徽4年10月に、「記」を同年12月に書いている。
 
 
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今から30年前、小豆島の紅顔の美少年が西安大慈恩寺内の大雁塔をたずねる。
 
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 褚遂良は、高宗が武則天を皇后に立てることに、人倫の道にはずれると強硬に反対し、ベトナムの地に流され、そこで没した硬骨の人であった。
 テストパイロットは、玄関でこの拓本をながめては、字がうまくならないかと思っているのだが・・・