『志に生きた男・頓宮寛 ①』

『志に生きた男・頓宮寛  ①』 
 
イメージ 1
 
 
イメージ 2
 
 拙著『奇跡の医師』の主人公である頓宮寛は、東洋一と謳われた上海福民病院創立の経緯とその医療理念を、次のように回想している。
「上海といえば有名な世界的都市兼貿易港であると同時に、排日排貨に伴う対日暴動の中心地でもありました。その上治外法権のフランス租界の大通には仏国後援の下韓国臨時政府が厳存しており、暗殺行為は頻発しておりました。
 私は予定通り業務上の主力を中国人側に置き、次は在住日本人を始め各外国人を吸収す可く努力致しました。当時は同地に在住日本人約二万人、日本開業医約二十名程度でしたが、前述田代恩師にズバリと放言せし通り、日本人特有(?)共喰商売を回避して、診療方針を「日本枠」の外へ外へと踏み出したのです。中国人患者に対しては、私自身彼等と同国人になったつもりで、通訳はなるべく避ける習慣をつけました。遂には日、中、英、独、露の五カ国語の使い分けをやって商売をしておりました。落ちぶれたらサーカスの札売でもやるかと人知れず苦笑したこともありました。
  かくて当医院は各国人間に抜群の認識を得るようになり、中国人患者は遠くは四川や湖南方面からも来院し、事実上民衆信頼の点でいえば広大なる中国第一の存在にのし上がったのです。院の職員は数に於いては勿論中国人を第一とし、次は日本人で、西洋人も五~六名おりました。皆さんご承知の通り上海といえば黒人を除く人種展覧会の都市でした関係もあり、医師として私ほど各国人の人間達を相手にした者は、日本人としてナンバーワンだろうと思っております。アホウの言かも知れませんが、私は事実を申し上げているのです。」
 
 大正7年春、このような志を抱いて異国の地に向かった医師が、今日までいたであろうか・・・