『志に生きた男・頓宮寛 ②』

『志に生きた男・頓宮寛 ②』 
 
 大正七年春まだ浅き三月、大冶行きを決意した頓宮は、出発に際し恩師田代義徳帝大教授をたずね、別れの挨拶をしている。
「大正七年第一次世界大戦中隣邦大陸を志し、鉄鉱では東洋一の湖北省大冶漢冶萍煤鉄公司院長として渡航揚子江中流の中国病院建設に出発致しました。漢冶萍とは、漢陽鉄廠、大冶鉄山、萍郷炭鉱三者合同の会社(公司)という意味です。大冶鉄鉱石は八幡製鉄所の生命であり、これ無くんば日本の製鉄工業は全滅するのです。
 東京出発に際し、田代恩師にお別れのご挨拶に伺いました。〝私は学者希望ですが、親の遺産でも無い以上生活に困ります。街の開業医になっても日本の社会相手では、ペンキ塗病舎一~二棟造るのが関の山で、これに一生をぶち込む気にはなれません。そこで将来世界に一大波紋を投ずる大陸に渡り四億の中国人を相手にする決心を致しました〟とズバリ申し上げました。
  恩師はビックリされた表情で、二十数貫の巨躯を動かし、例の通り両手で上着左右の襟をつかみながら、〝わが輩(恩師の慣用語)君の考えには大賛成だ、但し開業医となれば日本では君のいう程度が限度だから、脱線して進路を間違えないように注意しなさいよ〟と心のこもった忠言をいただいて退去しました。時に私は数え年三十五歳。」