『師と仰いで40年 つれづれに』 1973 ~ 2012

『師と仰いで40年 つれづれに』 1973 ~ 2012

 今回展示しております油絵とリトグラフ、スケッチは、陋屋にかけて楽しんでいる恩師田中岑先生の小品です。
  香川県出身の洋画家で第一回安井賞受賞の田中岑先生の知遇をわたしが受けるきっかけとなったのは、先生の専門である油絵ではなく、小豆島土庄町にある南郷庵を終焉の地とした自由律俳句の尾崎放哉でした。
  昭和四十八年の師走、わたしは『尾崎放哉の詩とその生涯』の著者である大瀬東二先生から江東区の自宅によばれ、聞かれるままに小豆島のことや終の棲家となった南郷庵での放哉を世話し、その最期を看取った曾祖母の話をしていた時のこと。今と違い、そのころは尾崎放哉を研究している人など稀であった。大瀬先生は『ガラスの壁』で第三十六回芥川賞候補となった人で、『尾崎放哉の詩とその生涯』の改訂版として、精神科医の視座から放哉の自由律俳句とそれを生み出した精神構造について考察しているということを話してくれた。
 帰り際、大瀬先生は、「南堀さんは小田急向ヶ丘遊園に住んでいるのですか、田中岑という画家が同じ向ヶ丘遊園に住んでいます。彼は「煙を見ているとすべてのことばがうばわれてしまう」という自由律の俳句を作っているように放哉に詳しい人です。それに田中君は南堀さんと同じ香川県出身です。ぜひ一度たずねてみてください。」と言いながら、田中先生の住所と電話番号を書いた紙をくれた。
 奇しくも田中先生はわたしのアパートから三百メートルほどのところにアトリエを構えているということがわかった。
 わたしがはじめてアトリエをたずねたときの模様を後になって田中先生は、「君がはじめて僕をたずねてきたとき、あなたも香川県出身、僕も香川県出身です。放哉や絵のことを勉強したいので弟子にしてくれと言う、大瀬君の紹介だったからしかたなく会ったが、少し頭のネジのゆるいのが来たと思った」と愉快そうに語ってくれた。
 田中先生から、少し頭のネジのゆるいのが来たと思われたのは無理もなかったと思う。小豆島の高校を卒業して半年あまりのわたしは、田中先生がどのような画家なのか、受賞していた安井賞が画壇の芥川賞といわれていたということすら知らなかったのだから・・・
 土庄高校時代の恩師、今は亡き葛西正信先生が卒業のときに言ってくれた、「南堀君、大学へ行ったらええ先生に出会えよ、一生の宝物や」という言葉を胸に抱いていたわたしだったが、ぽっと出の田舎者が東京の大学に入学したからといって、生涯師と仰ぐ先生と巡り会えるほど、世の中甘くはなかった。わたしには、どのようにしたらいいのか、皆目見当がつかなかった。ただ、そのころの専修大学は希望して許可されれば一年生からゼミナールに入ることが出来、指導教授より直接教えを受けることができた。まず、ゼミナールに入って大学の先生から直接教えをうけようと考えた。しかし、入室試験を受けても受けても不合格が続き、かろうじて内田義彦という経済学史と社会思想史を専攻する教授がゼミナールに入れてくれた。合格の理由は、入室の試験の成績ではなく、わたしが小豆島出身だということであった。
 後にわたしが田中岑先生とともに終生の師と仰ぐことになる内田義彦先生は、「いろんな大学の講義を聞いたり、先生の話を聞きに行きなさい。画家ですか、いいではないですか。行って勉強しなさい」という心の広い先生であったことから、画家である田中先生のもとへ押しかけていったのである。
 ちなみに、内田先生は学生には優しかったが同僚教授からは「鬼の内田義彦、毒舌家の内田」とよばれていたことからか大学での友人は少なく、その反面、劇作家の木下順二さんが『あの過ぎ去った日々』で追憶しているように、俳優の宇野重吉、女優の山本安英、小説家の野間宏杉浦明平、画家の岡本太郎、歴史家の石母田正、政治思想史家の丸山真男、映画制作の青山敏夫、瓜生忠夫、建築の生田勉、演出家の下村正夫、哲学者の中村哲森有正、心理学の南博、評論家の加藤周一花田清輝寺田透美術評論家針生一郎、嘉門安雄など多種多彩な分野の人たちが友人であった。なにしろ、あの「芸術は爆発だ」という岡本芸術の根幹にある縄文土器の素晴らしさを岡本太郎に教えたのが内田先生だということは友人の間では有名な逸話であった。
 そのころのわたしは、大学の講義はそっちのけでアルバイトに明け暮れる毎日であった。ただ週に一度、目黒区鷹番の内田先生の自宅にうかがい、内田先生から教えを受けるのが唯一の楽しみであった。それに、田中先生のアトリエ詣でが加わったのである。しかし、押しかけ弟子のくせに、田中先生から絵の実技は、一度も教えてもらっていない。「美学とはなんぞや」、「野間宏の『暗い絵』の中にブリューゲルの絵が出てくる。暗い絵とはなんぞや」、「春の山のうしろから烟が出だした、という尾崎放哉の辞世の句、この烟を君はどのようにつかむのか」という禅問答のようなものばっかりであった。楽しみは、アトリエの作品や蔵書を自由に見ることができる。奥さんが時折夕食を出してくれることであった。
 そんなある日のこと、「君は土井虎賀壽先生を知っているか」と聞かれたので、「知りません」と答えると、「君は香川県出身のくせにドイトラを知らないのか」と一喝された。田中先生にとって土井虎賀壽という人は香川県の誇る碩学であり、君は大学生にもなって土井虎賀壽先生、通称「ドイトラ」を知らないのは、香川県出身のくせに、実に情けないというものであった。
 今と違ってインターネットなどなく、困ったわたしは、内田義彦先生に土井虎賀壽のことを聞いた。内田先生は、滝川事件で京大を追放された法学者の加古祐二郎に師事し、野間宏の処女作『暗い絵』の主人公深見進介のモデルとなっている人である。内田先生ならば、土井虎賀壽のこと知っていると思ったからである。
「土井虎賀壽、知っていますが、そりゃあ君がドイトラのことを知らないのはしかたないよ」となぐさめてくれながら教えてくれた。
 土井虎賀壽は、香川県生まれの哲学者で文学者、第三高等学校教授の職を辞して東大仏文科に入学するという、京都学派の「異端児」・「奇人哲学者」として知られた人で、そのころ田中先生は土井虎賀壽の遺稿集の編纂にたずさわっていたのである。
 それにしても三高教授の職を辞して東大に大学院生として入学する・・・東京藝大を一ヶ月で見切りをつけ、日大藝術学部に編入した田中先生と一脈通じるところがあると思ったわたしが、田中先生はなぜ東京藝大をやめて日大藝術学部に編入したのかとたずねると、「絵描きになるためじゃ」と田中先生は語気鋭く言い放った。藝大の食堂で昼飯を食べていると日大藝術学部で講師をしていた海老原喜之助という画家から誘われたからだというのが理由であった。
 同じ香川県出身で藝大教授、藝術院会員の小林万吾が保証人となって藝大に入学したのである。それを一ヶ月で退学し、日大藝術学部へ編入する。なんとも、もったいない・・・わたしが、「せっかく難関の東京藝大に入ったのだから卒業してからでも遅くなかったのではないですか」と言うと、間髪をいれず、「アホか、お前は、絵描きは絵で勝負じゃ」と怒鳴りつけられた。
 これは、田中先生の母親トラヨの祖父で、京都御所の絵師である狩野派の鶴沢探索に学び、正規の狩野派絵師でありながらただ一人、生涯伊予の農村で絵を描いた今村道之進義種の血脈であろうか・・・
 絵を売って生活をする・・・そのためには有力な後援者、画廊、絵を買ってくれるファンがいなければ、絵描きは絵で勝負じゃといくら嘯いても妻子を食わしていくことはできない。
 田中先生と同じ香川県三豊郡和田村(旧・豊浜町)出身者で、旧制三豊中学(現・観音寺一高)の先輩に、大平正芳元総理がいる。大平さんと田中先生は親の代からのつきあいがあり、昭和二十七年、大平さんは大蔵省を退官、衆議院議員に立候補して初当選、田中先生はその当選祝いに「白桃」という絵を大平さんに贈っている。
 それから二十年後の昭和四十七年七月一日、フジテレビのミュージック・ギャラリーという番組で田中先生は大平正芳さんと『ふるさとを語る』というテーマで対談(司会・石坂浩二)をしている。その中で大平さんは、「私は、丁度代議士になったばかりでしてね。今年で丁度代議士になって満二十年ですから・・・なったばかりの時、田中君から頂戴しましてね。えー、なんかすごく甘美な、こう包まれるような感じでね。とても好きなんです。でまあ、今、丁度、私の部屋に置いてあります」と言っているように、初当選の祝いに、同じ和田村で三豊中学の後輩の絵描きが絵を持ってきてくれたのである。大平さんは、うれしかったであろう。
「豊浜は昔は金持ちの多いところでしてね、田中君の家なんかも相当の名門でしたけどね」
 大平さんは、田中先生の生家について、このように語っている。
 これについて田中先生は、「豊浜の家は祖父が回船業をしていてかなり大きな家だったのだが、兄貴が宝塚の舞台美術、弟の僕が絵描きになったから、今は塀だけしか残っていないよ」と、兄の田中照三(本名・輝夫)は戦前から宝塚歌劇団の舞台美術を担当。関西演劇美術協会初代会長や大阪芸術大学教授を務め、優れた舞台美術におくられる伊藤熹朔賞を受賞しているということを話してくれたことがあった。
  小豆島にも都合三度、一度は奥さんともども来島して、楽しいひと時を過ごすことができた。寒霞渓から備讃瀬戸の海をスケッチしていたとき、後ろから覗きこんでいたわたしに、このようにして線をボカすのだと教えてくれたのが、田中先生から教わった唯一の絵の技法であった。島から外を見るばかりでなく、外からも島を見ろと教えてくれたのも田中先生であった。父親の船で海から小豆島を見るために、さらには女木島まで走り回ったのも懐かしい思い出である。
  往事渺茫・・・
 この小品展のために四月十一日、今度土庄の図書館において手持ちの先生の絵で小品展を開催します。何か一筆お願いしますと手紙を出していたのだが、いつもと違ってなしのつぶて、そういえぱ先生はすでに九十歳を過ぎている・・・ひょっとしたらと思い二十四日に電話をすると、いつもの元気な声で、君になにか書いて送らなければと思っているのだが、毎日君の『奇跡の医師』を読んでいる。小豆島に行きたいけど、もう無理だ。今度川崎の市民ミュージアムで二百五十枚の絵を出して展覧会をやる。そして最後に、小豆島には有名無名にかかわらず数多くの絵描きが訪れている。このような企画展を開催して島で眠っている作品を皆さんに見てもらいなさいよと激励された。
 二日後の二十六日、「田中岑91層の色彩展」の案内が来た。
 91層の色彩展・・・
 ふと気がつくと、田中岑先生を師と仰いで四十年の歳月が流れていた。
    
      平成二十四年五月
 
 

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