拙著「テストパイロット」(光人NF文庫)掲載します。読んでみて下さい。

               「テストパイロット」

       壹等飛行機操縦士 森川勲の生涯


はじめに


教壇に立つ森川勲の耳に、「ブーン、ブーン」という、発動機の爆音が忍び込んできた。
(飛行機・・・それも双発機)
 こちらに近づいているのか、爆音はしだいに大きくなり、やがて窓の外から流れ込んでくるようになった。
教室にざわめきが走り、小豊島(おでしま)分教場の七人の子どもらの腰が椅子から浮いた。
 黒く煤けたアラビア文字の柱時計に視線を走らせた森川は、
「少し早いですが、今日はここまでにしましょう」
手にしていた国語の教科書を、古ぼけた教卓の上に置いた。
と、六年生の「カッツン」こと岡本勝男が、窓から身を乗り出し、
「森川せんせ(先生)、飛行機や、進駐軍の飛行機や」
空を指さしながら弾んだ声で叫ぶと、子どもらは歓声を上げながら、いっせいに教室から飛び出した。
 昭和二十五年五月初旬の、よく晴れた昼下がり、瀬戸内海は岡山県香川県との間、備讃瀬戸の海に浮かぶ小豊島の上空に、銀翼をきらめかせながら双発の飛行機が近づいていた。
「森川せんせ、飛行機や、はよう、はよう、飛行機やでぇーー」
「ごっつう大けな(ものすごく大きな)飛行機やなぁーー、アメリカ軍のやろうか」
「羽根に星がついとったらアメリカ軍や」
「せんせは昔、飛行機に乗っとんたんやろう。とうちゃんが、森川せんせは飛行機乗りやいうとったんでぇ」
「飛行機乗りとちゃう、パイロットいうんや、な、せんせ」
「飛行機、どして空飛べるんやろう」
「うち、飛行機乗ってみたいなぁーー、森川せんせ、飛行機の話して」
子どもらはこう言いながら、教室から出てきた森川にまとわりついた。
離れ小島の小豊島で乗り物といえば、芋や麦を運ぶ牛車か、漁に使う手漕ぎ舟であった。バスや自動車に乗ったことのある子どもはほとんどおらず、絵本や教科書の口絵で知っているだけ、希に、進駐軍の飛行機が島の上空を飛ぶと、授業がおろそかになった。
森川は、飛行機に向かって、両の手を大きく振り回しながら、「おおいぃぃーー進駐軍の飛行機、乗せてくれぇーー、乗せてくれぇーよおぉーー」と叫んでいるカッツンと同じように、目を細めるようにして空を仰いだ。
(高度は五百・・・気速は百、いや百十ノット、アメリカのコンソリか「コンソリーデーテットPBYカタリナ双発飛行艇」、巡航速度は確か、百五ノットだった・・・少しバラついている。発動機の同調が甘いな)
森川は、頭上を飛ぶ飛行機の高度、気速(対気速度)、機種、パイロットの技量を無意識のうちに読みとっていた。
大正十四年八月に霞ヶ浦海軍航空隊第八期飛行練習生として、複葉木骨麻布張り双フロートのイギリス製アブロ504L型水上練習機で霞ヶ浦の空を駆けめぐって以来、川西航空機の四発大型飛行艇である「二式大艇」や双発夜間戦闘機「極光」、水上戦闘機「強風」、局地戦闘機紫電改」などのテストパイロットとして、昭和二十年八月十五日の終戦を迎えるまでの二十年間にわたって大空とともに生きた森川は、空を飛ぶ飛行機の爆音を聞くだけで、そのパイロットの技量と飛行状態を見極めることが出来た。
カタリナ飛行艇は、空に向かって懸命に手を振る分教場の子どもらの姿を認めたのか、小豊島の上空を翼を深く傾けて旋回しながら、風防越しに焦げ茶色の飛行帽をかぶったパイロットの顔が視認出来るまでに高度を下げてきた。
「やっぱり羽根に星がついとる。アメリカ軍のや、森川せんせ、アメリカ軍のんやなぁーー」
カッツンが叫んだように、飛行艇主翼と艇体にはアメリカ軍の標識である星のマークが描かれていたが、森川は教え子の呼びかけに答えようともせず、カタリナ飛行艇を食い入るように見つめていた。
「せんせ、森川せんせ、どしたん、こわい顔して」
腕をつかまれて、森川は我に返った。
いつの間にか森川は、カタリナ飛行艇のコックピットで操縦輪を握っている自分の姿を思い描いていたのである。
森川は、終戦とともに捨て去っていたはずのテストパイロットとしての性根が、まだ心の片隅に残っていたことに、
(飛べないことを恨まない、飛べたであろう昔のことなど、考えもせずこだわらず・・・か)
苦笑を浮かべながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
この詩は、岡崎市で義兄と織布の仕事に携わっている岡本大作の葉書に書かれていたものであった。
岡本は、森川が羽田の日本学生航空連盟海洋部において教官をしていた頃の教え子であり、川西航空機飛行検査部のテストパイロットとして、同じ釜の飯を食べた間柄であった。
(先生はな、コンソリなんぞよりもっともっと大きな、ええ飛行艇に乗っとったんやぞ、先生が試験飛行しとった川西の二式大艇は、世界一の飛行艇やったんやぞ・・・)
 飛べないことを恨まない、はずの森川だったが、目を輝かせて空を仰ぎ、「うち、飛行機乗ってみたいなぁーー、森川せんせ、飛行機の話して」と無邪気にせがむ七人の教え子を見ているうちに、この子らを二式大艇に乗せて、大空を思うがままに飛んでみたいという思いに駆られた。
それは、かつての森川ならば、たやすいことであった。
しかし、今の森川には、到底かなわぬ夢であった。
 播磨灘や備讃瀬戸の空を二式大艇や強風で自分の庭のように飛び回り、生まれ故郷の村の沖合に着水しては立ち寄っていた川西のテストパイロット時代ならいざ知らず、日本の、故郷の空は、GHQ(連合国総司令部)のものであった。
日本の無条件降伏とともに、羽をもがれた森川は、故郷である小豆島四海村に帰ると、赴任する教師が見つからず困っていた小豊島分教場の代用教員となった。
小豊島は、瀬戸内海において淡路島に次いで二番目に大きい小豆島と、六十万トンにも及ぶ産業廃棄物の不法投棄で一躍有名になった豊島との狭間に浮かぶ、周囲五・一キロ、面積一・一平方キロほどの離れ小島であった。島には、電気はもとより水道も電話も引かれてはおらず、半農半漁を生業とする六十人余りの島民は、急病人が出れば小高い丘から狼煙を上げて小豆島や豊島から迎えの船を呼ぶという、明治時代そのままの暮らしを続けていた。
森川が代用教員として勤務する小豊島分教場は、海が荒れると小豆島の小学校へ通学することが出来なくなる島の子どもらのために、日本郵船で外国航路の船長を務めていた浜田松太郎と島民の拠出金によって昭和十三年に建てられたもので、分教場で学ぶ児童は一年生から六年生まで合わせても七人、先生は森川ただ一人。壺井栄の名作『二十四の瞳』で一躍有名になった小豆島の岬の分教場(田ノ浦分教場)よりも小さく、八畳の教室、六畳の宿直室の二部屋、運動場は島の浜辺、始業や休み時間を告げる時鐘さえ備え付けられてはいなかった。
かつて海軍航空廠飛行実験部、川西航空機の名テストパイロットと謳われた森川勲と小豊島分教場の七人の子どもらは、機首を西に巡らし、空から海にこぼれ落ちたかのように点在する塩飽の島々に向かって飛び去ろうとするカタリナ飛行艇を、いつまでも見つめていた。