「いれものがない両手でうける」

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                     「いれものがない両手でうける」


 尾崎放哉が亡くなって二年後の昭和三年四月七日の命日、放哉を庇護し南郷庵の庵主として世話した小豆島の素封家井上一二が施主となって南郷庵の庭先に放哉の句碑が建てられた。
 

 句は、「いれものがない両手でうける」
 

 字は、尾崎放哉の終生の俳友であった荻原井泉水の筆である。

 
 この句碑を見る度に、小学生の頃、遍路さんが来ると、「遍路さん、豆ちょうだい」と言って、遍路のズタ袋に入っている、大豆を煎ったものを、両手をお椀代わりにしてもらっていた自分自身を思い出します。
 

 遍路さんににとって首からさげているズタ袋の中の煎った大豆は、生きていく上で必要不可欠なものであった。この煎った豆と水を飲むことによって、空腹に苛まれるのを防ぐためのものであった。


 そのうち、煎った大豆ではなく、甘露飴などもくれるようになり、豆をくれる遍路は「貧乏遍路」、甘露飴をくれる遍路は「金持ち遍路」と区別するようになり、「遍路さん、甘露飴もっとらんの」とねだるようになった。
 昭和30年代後半の、高度成長経済が蠢動していたころのことである。