お待たせしました。グラマンとの死闘の続きです。『テストパイロット』一等飛行機操縦士森川勲の生涯・光人社NF文庫

ほっとする間もなく、
「十一時にグラマン二機」
 副操縦席の岡本が怒鳴るのと同時に、艇内に敵機発見のブザーがけたたましく鳴り響いた。
 電信員が九六式空四号無線送信機の電鍵に取り付き、「トン・ツー・ツー・ツー・トン」というセ連送(ワレ敵戦闘機の追躡ヲ受ケツツアリ)を川西航空機本社に向かって打電した。
 太陽を背に忍び寄ってくる二つの小さな黒点に視線を走らせた森川は、右のフットバーを目一杯踏み込むと同時に操縦輪を左に傾け、横滑り降下(サイドスリップ)で、高度を三百メートルまで落とした。
右のフットバーを踏むと方向舵に受ける風圧により機首は右に向こうとする。一方、操縦輪を左に傾けると左の補助翼は上を向き(揚力減少)、右の補助翼は下を向き(揚力増大)、機体は左に傾こうとする。その結果、針路と姿勢、気速はそのまま維持しながら、飛行機を急速に沈み込ませることが出来る。森川のとった一連の逆操作(クロスコントロール)は、水上偵察機が着水時によく使う操作であったが、慣性力の大きい九七式大艇二式大艇などの四発大型飛行艇では、一つ間違えば失速してしまう。最前線での空中戦の経験こそないものの、テストパイロットとして二式大艇を知り尽くし、手足のごとく操れる森川ならではの飛行機捌きであった。
森川は、さらに高度を百メートルまで落とした。
 二式大艇はたぐいまれなる飛翔能力を誇っていたが、それは飛行艇同士を比較してのこと、戦闘機に比べれば速力は遅く、動きも緩慢であった。また試験飛行中ということもあり、射手は乗っておらず、各銃座の機銃には機銃弾が装填されてはいなかった。応戦しようにも、「丸腰」であった。グラマンの魔の手から逃げ延びる唯一の手だてでは、海原を這うように飛ぶことであった。
グラマンやコルセアなどの戦闘機は、飛行艇を捕捉すると、後上方あるいは前上方から銃撃を加え、上昇反転の後、もっとも防備の薄い艇底を前下方、後下方より射上げるという反復攻撃を加える。しかし、海面を這うように飛ぶ飛行艇に対しては、海面からの回避操作に気をとられ、距離と角度を詰めての十分な銃撃を加えられない。そこで戦闘機が同高度で銃撃しようとすると、今度は海面が目の高さになり、一つ間違えばプロペラが波頭を叩き、海に突っ込んでしまう怖れがあり、銃撃しようとはしなかったからである。
 森川が、二式大艇を四千メートルから一気に三百メートルまで、さらに百メートルまで降下させたのは、このためであった。
 しかし、海原に離着水する飛行艇といえども、海面すれすれを飛び続けるのは、至難の業であった。
 コックピットの窓ガラスを波飛沫が叩くような超低空で飛ぶ場合、気圧高度計は役に立たない。パイロットは水平線を見ながら高度を判定しなければならず、わずかな操縦ミスが命取りとなる。海面を這うように飛ぶ超低空飛行は、パイロットに極度の緊張と繊細な操縦を強いるが、老練な森川は、これまで何度もこの手で窮地を脱していた。
四月に入ると、マリアナ諸島サイパンテニアンなどから飛来するB29四発大型重爆撃機ばかりでなく、日本近海を遊弋する米空母から発艦したグラマンF6FヘルキャットやチャンスボードF4Uコルセアなどの艦上機、さらには硫黄島から飛び立ったロッキードP51ムスタングなどの陸上機が日本各地の港湾施設や鉄道、軍需工場などに銃爆撃を加えるようになり、国内物流の大動脈である瀬戸内海もまた、これらアメリカ軍機の跳梁により半身不随の状態におちいっていた。時折、翼をキラッ、キラッときらめかせながら忍び寄ってくる二機のグラマンは、岡山の水島飛行場を銃爆撃した後、備讃瀬戸を航行していた機帆船に対して、猫が鼠をもてあそぶかのように機銃掃射を加えていたが、森川が試験飛行をしていた二式大艇を見つけると、帰りの駄賃とばかりに襲いかかってきたのである。
アメリカ海軍の誇る艦上戦闘機グラマンF6Fヘルキャットにとって、二式大艇こと「エミリー」は、縁起のいい飛行機といえた。
 太平洋戦争が始まると、二式大艇はその長大な航続距離を生かして遠距離哨戒や爆撃に活躍していたが、昭和十八年九月二日、マキン島の水上機基地を離水し、アメリカ軍が飛行場を建設し始めたベーカー島方面海域の哨戒に赴いた八〇二空マキン派遣隊の二式大艇が、何の連絡もなく、それも三機もがたて続けに、忽然と消息を絶ってしまった。
敵機の追尾や銃撃を受けたならば、何らかの無電を打つはずである。マーシャル諸島のヤルート島イミエージ基地に本部を置く八〇二空では、よほど突然に攻撃を受けたに違いないとしか推測出来なかった。
 戦後になって、ベーカー島付近の海域を遊弋していたアメリカ海軍の軽空母「プリンストン」と「ベロー・ウッド」を主力とした第十一機動部隊の上空直掩についていた新鋭艦上戦闘機グラマンF6Fヘルキャットが、三機の二式大艇を撃墜したという事実が判明した。
 高度二千百メートル付近を飛行中の二式大艇(機長・小林淳作中尉)に、巡洋艦からのレーダー誘導で後上方から忍び寄った空母プリンストン第六戦闘機隊分隊のレッシュ大尉とナイクィスト少尉の操縦するグラマンF6F戦闘機二機は、プラット・アンド・ホイットニー社製空冷式複列星型十八気筒二千馬力R2800ー10ダブルワスプエンジンをフル回転させてパワーダイブをかけ、二式大艇主翼中央、二番、三番発動機付近から操縦席にかけて十二・七ミリ機銃弾を撃ち込み、一撃のもとに葬り去ったのであった。
 これより二日後の九月四日、そして五日後の九日と連続して未帰還機となった八〇二空の二式大艇も、同じようにレーダーで誘導されたグラマンF6F戦闘機隊の後上方から攻撃を受け、一言も打電することなく撃墜されたのであった。そして、これは同時に、グラマンF6Fヘルキャットにとって最初の日本軍機撃墜記録となり、二式大艇にとっては悲劇の始まりとなったのである。
操縦輪を握る森川の目の前に、岡山市の沖合に浮かぶ犬島が見る見る大きくなった。
 左手には児島半島が、右手前方には森川の故郷である小豆島が横たわっていた。
 森川は、躊躇することなく機首を小豆島に向けた。