明治の三筆のひとり、巌谷一六の書

  明治の三筆のひとり、巌谷一六の書
 
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    テストパイロットは、時折巌谷一六が明治33年3月書いたこの書をとりだしてはながめている。
 明治の人の気魄が、この書からうかがえる。
 

 
   巌谷一六(いわや いちろく)、本名は修(幼名は辨治)、字を誠卿といい、一六は号で、明治時代初期の役所の公休日は、「1」と「6」の付く日で、その日は筆を持つ日と決めて、「一六」という号をつけたと言い伝えられている。別号に古梅・迂堂・金粟道人などがある。天保5年(1834年)、滋賀県甲賀郡水口町に生まれる。明治元年、新政府の官吏となり、内閣大書記官・元老院議官・貴族院議員などを歴任。能書家としても知られ、はじめ中沢雪城に師事して菱湖流を学び、明治13年(1880年)に来日した楊守敬から六朝書法を学んで独自の書風を確立した。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなし、中林梧竹日下部鳴鶴とともに明治の三筆と称される。明治38年(1905年)、72歳で没した。児童文学者の巌谷小波は子どもである。