『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑩』

『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑩』
 
 内地滞在二ヶ月あまり、昭和十八年の師走も押しつまったある日、頓宮は海軍の大西瀧治郎軍令部長(中将)に、ぜひ会ってくれと頼まれた。
 大西瀧治郎軍令部長から、頓宮先生はひとまず上海にもどり、南京総軍に蔣介石との和平交渉を工作してくださいと依頼され、九州雁ノ巣基地から海軍機に便乗して上海に帰り着いたのであった。
 上海にもどった頓宮は、福民病院眼科医長の川(かわ)井(い)観(かん)二(じ)医師から、頓宮院長が上京した本当の用向きは知っております。南京総軍第三課の課長に辻政信(つじまさのぶ)大佐がおります。辻大佐の背後には若杉参謀という特殊人(三笠宮の仮名)がおり、天皇との直通のパイプです。まず辻大佐と相談されたらどうですかというアドバイスをうけた。
  頓宮は、そのときの経緯を、次のように述べている。
 
「上海に帰って驚いたことは、ある人物が筆者に向い「貴殿が上京した真の用向きは知っている。世間をゴマ化しても僕には解っている。南京総軍第三課長に大佐辻政信という人物がいる。辻の背後には若杉参謀と仮称する特殊人が滞在している。これが天皇直通の線だから、先ず辻と相談しなさいよ」と注意してくれました。あれ程用心深く現地を離れたのに世間の眼は恐ろしいと驚きました。その千里眼的人物はかって当院眼科主任であり後母校で頸髄腫瘍の難手術を受け爾後右手運動障碍で方針を変え、目下茨城県保健所に勤務中の慶大出身川井観二君であります。」
 頓宮は、重慶政府の四人使者に、重光との会談が不首尾に終わったことを報告し、次策として、南京総軍には若杉参謀(三笠宮)がいる。天皇との連絡は若杉参謀を通じて可能であると話をすると、重慶政府の使者は非常に乗り気になり、停戦交渉は日本の軍部や外務省などの役人ではなく、天皇と蔣介石総統との直接交渉で迅速にすすめたい。日本側の交渉の代表として石原(莞爾)中将ならば無条件で同意する。先ず辻参謀と頓宮先生の二人が、中国人医師と鞄持ちに変装して重慶におもむいて蔣総統と直接会談をおこなう。連絡係に一名、福民病院に患者として入院し、重慶放送が聴けるよう短波受信機を用意してほしいということになった。
  ここまで重慶側の使者と話をつめた頓宮は、南京総軍本部の辻政信(大佐・陸士三十六期)支那派遣軍総軍第三課長をたずねたのであった。
  そのときの模様を、辻政信は昭和二十五年に上梓した『亜細亜の共感』で、次のように書き記している。
 
「昭和十八年も押し迫つた暮の某日、頓宮寛先生が突然、全く突然に、軍司令部に訪ねて來られた。
 先生は上海福民病院長として、約三十年間中國人の治病に精魂を傾けた人であり、陳誠が中佐の頃から御世話になり、その他、重慶陣營の巨頭連中は皆恩惠を受け、多少とも感謝してゐないものはない位である。重厚な老學者であり、仁醫であつた。この人には、策もなく、術もなく、ただ醫療を以て人を救ふ以外に、餘念のない人であつた。
重慶の某要人から、至急來てくれ、との連絡が最近ありまして、どうしたらと、思案に暮れてゐるところです。
  どうしたらよいと思はれますか・・・・・。御相談にあがりました。何の事か要件はわかりませんが、安全は保證するとの事です。」
 全く豫期しない福音が、頓宮病院長からもたらされた。
 天、未だ我を捨てず、・・・・・
「何よりの事です。わたしが助手になり、あなたの藥鞄を持つてお伴します。一日も早く、準備をお願いします」
「さうですか、わたしも實は六十を超へた身であり、妻も死んでしまひました。もう思い殘すことは何一つありませんから、何とかこの老骨で、お國の爲になり得たら幸ひです。あなたがついて行つて下さるとは、思ひがけない事です。早速準備しませう」
 その後約一箇月に亘つて、重慶側の連絡者と打合せ、具體的な準備を進めた。二回に亘つて、夜窃かに便服に更へて、彼等の本據を頓宮氏と共に訪ねた。連絡者は「葛光庭」(蔣主席の同學)と劉時雨(少壯)の二人である。明かに僞名であるが、皆相當の地位に在る事は確かであり、重慶の地下人である事も、その家庭の雰圍氣から判斷される。
 經路は第三戰區、顧祝同の正面とし、劉時雨が同行する事となり、出發は日本側の準備出來次第と決定した。彼等はこの決行に、自信滿々たるものがあつた。
「全面和平の爲の條件を、事前に重慶に知らす必要はないか?」
「いや、そんな事は、あなたが蔣主席に會つてから切り出すべきもので、我々は、唯々頓宮さんと、辻先生を重慶に案内して來いといふ任務だけを貰つてゐるものです。」
 成る程、これは從來口にされた所謂重慶工作なるものと、全く性質が違つてゐる。
 香港會談にせよ、「スチュアード」路線にせよ、衆口の一致するところは、日本の和平條件であつたが、今眼前に現はれたところは、「實行の橋渡し」である。
 これこそ、本物である。情報ブローカーでは斷じてない。最惡の場合に於ては、捕虜になるだけだ。併し、三十年間、中國民衆に盡した頓宮氏を、俘虜扱ひすることはあり得ない。
  彼等は、蔣母慰靈祭の事を、詳知している。わたし個人の存在は蔣さんは十分知つてゐると、附け加へた。
「東京を動かさう。對手は東條さんだ!・・・・・肯かれなかつたら、刺し違へるまで!」
 豫ゝ賴まれてゐた上海在留邦人に對する講演を、二月八日の午後、某劇場で行つた。立錐の餘地もない程の聽衆に、約二時間講演し終つた時は、流石に疲れを感じた。
「戰局の前途と、事變解決に就いて」
 心魂を燃し盡すかに感じた。(この講演の要旨が、直ちに華譯されて重慶に取次がれた事は、敗戰後判明した。)
 その夜、更に頓宮氏及び、劉、葛兩君に會つて最後の打合はせをした。
  總司令官、參謀長、副長、第一、第二課長にはこれまでの經緯を説明し、總軍としての立場を東京に連絡する事をお願ひした。」