『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑪』

『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑪』
 
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     上海福民病院院長 頓宮 寛 博士        昭和18年3月撮影
 
 辻政信と頓宮寛との重慶工作の失敗は、総軍内部での根回しの不足、辻の幼年学校、士官学校首席、陸大恩賜組(四十三期・三番)という経歴、派手なスタンド・プレーと戦歴、軍隊組織のもっとも嫌うショート・サーキットなど、さまざまな原因が考えられるが、その一つとして、民間人である頓宮の仲介があったのは否めない。
 総軍第二課長の都甲徠大佐が、「重慶工作は現在總軍の擔任に非ず、頓宮氏は善人なるも、謀略に向かず」と、言いまわしこそ穏当であるが、頓宮の仲介について嫌悪感をあらわにしたのも無理からぬことであった。
 外国人と接触する機会の多い国際都市上海には、中支那派遣軍憲兵隊司令部(職員七十名、憲兵約一千三百名、無線探査隊約四百名)が置かれ、上海領事館警察とともに中国はもとより上海在留のイギリス、アメリカなど欧米の民間人と接触する在留邦人に目を光らせていた。
 頓宮は、「上海租界地は元来英国植民地の間だった関係もあり、わたしは長年政庁の衛生委員兼警察医でありました縁故で日頃英国籍の知友もかなり多く、太平洋戦争勃発を機とし不安のどん底に転落した彼等との個人交渉もまたかなりありました」と回想しているように、共同租界衛生委員会日本代表委員として上海在留の欧米民間人と、相手によって英語、ロシア語、ドイツ語を使い分けて会っていた。さらに、中国人から絶大なる信頼を寄せられ、福民病院本館建設に中国人から四十万元という巨費を無担保の信用貸しで提供されていたことなどから、頓宮は憲兵特高課や上海領事館警察から危険人物としてマークされていたのであった。
 内地では、庶民の煙草として親しまれていたゴールデンバットが、軽薄な外来語を一掃するため「金(きん)鵄(し)」に、チェリーが「桜」に改名されたように、雑誌「キング」が「富士」に、ドレミファソラシドがハニホヘトイロハ、野球用語のストライクが「よし」、ボールは「駄目」というぐあいに、「帝国臣民なら日本語を使え、日本語を」と、すべての外来語が敵性語として使うのを禁止されていた。
 英語追放が徹底して陸軍では、開戦前の昭和十五年十月、士官学校の採用試験科目から英語を除外していたのをはじめとして、自動車のハンドルを「走向(そうこう)転(てん)把(ぱ)」、アクセルペダルを「加(か)速(そく)践(せん)板(ばん)」、ライスカレーを「辛み入り汁かけ飯」など、兵隊に片かなを一切使ってはいけないと言い換えを強要していたほどである。
 南京総軍の将官の多くが、頓宮という医者は、たかが一民間人のくせに、チャンコロのみならず、敵性語である毛(け)唐(とう)の言葉を得意げにあやつって欧米人と頻繁につきあっている。そのようなうさんくさい民間人の容喙や参画など断じて許すことはできない。重慶工作は柴山中将専任の仕事であるという、軍官僚(日本人)特有の官尊民卑の思想が流れていたからである。
 辻政信は、自著『亜細亜の共感』において、頓宮寛のことを、次のように書き記している。
 
「日淸戰争以來、對中國謀略費として、如何に多くの國費が中國通の軍人や、政客や、浪人の手によつて、泡(あぶく)のやうに浪費されたことか。その半ば以上は、これ等の日本人の酒となり、女となり、博奕となり、殘りの半分は、反對に排日、侮日の實を結んだ。
  軍の威力を笠に着た御用商人共が、一旗組が、如何に粗悪な商品を賣りつけて、大陸に我が民族の信用を墜したことであろう。
  醜業婦と、ゴロツキとが海外發展の尖兵長であつた日本と、國家で精選した人物を、少數だけ海外に送つた獨逸とを比較して、我等は將來の深い戒めとしなければならない。
 人と、人との交はりに於ても、國と、國との外交に於ても、物と、物との貿易に於ても、絶對に對手を騙さない信義だけが、武備なき日本民族の世界に雄飛し得る最大の武器である。
  上海福民病院長頓宮寛先生が、中國人の間に築き上げた信用は、絶對のものがあつた。それは唯三十年間を一日のやうに、仁醫として實踐した結果である。時の大官も、一介の書生も、日本人も、中國人も、彼の眼中には差別なく、醫者の良心と、優れた技倆とを以て生命を救ふ一念を、貫き通しただけである。
  宴席で口を開けば、「同文同種の兩民族は、親和しなければならぬ。」と、日本の外交官も、軍人も、商人も、挨拶するが、之を眞面目に聞いてゐる中國人が一人でもゐただろうか。」
 頓宮のような民間人が日中親善に奔走し、その意図がいくら中国人の賛同を得ても、軍人が絶対的な指導権を掌握している限り、所詮は絵に描いた餅、水泡に帰す運命であった。
  辻政信の、人として、軍人としての功罪、評価はさまざまであるが、頓宮を引き合いに出して辻が言わんとするところは、日清戦争この方、中国人をチャンコロと露骨に差別しながら、口先だけの「同文同種の兩民族は、親和しなければならぬ。」という負の部分の核心をついていると言っても過言ではないであろう。そして、その弊害は改められないまま、日中戦争、太平洋戦争に突入したのである。
 頓宮は、辻政信との重慶工作失敗について、遺稿『太平洋戦自家ノート』注⑤で、次のように書き記している。
 
「当時中国人の間に、和平ブローカーといわれた政商あり、蔣さんと連絡すると称して懐を肥やす連中も居りましたが、わたしの場合、絶対にこの心配はありませんでした。殊に、後でわかったことですが主役の一人として、藍衣社と称する地下組織の頭領戴笠(故人)が居りましたから、絶対間違いありません。この人物は徳川家康に対する大久保彦左で、当時の日本が、如何に手段を講じても接触することは不可能で、しかも蔣さんを蔭で動かして居た大人物だったのです。当時日本の新聞雑誌は、写真入りでデカデカと書きたてたものですが、唯今申した通り、日本人相手は絶対タブーでした。
 この辻、若杉工作の崩壊の旨先方に通じましたら、先方の憤激は非常のものでした。要約しますと、
「日本はまだ中国を苦しめる気か、よろしい。わが中国も最後まで戦いましょう。但し中国は決して戦争には負けません。やがて日本はひどい目にあいますよ。この旨を日本の大本営に連絡してもらいたい。」
「貴公は医者で無力なことは充分承知の上です。極秘のままで二、三か月傍観を請う。云々」
  中国は戦争に負けない。二、三か月傍観してくれと言われたが、当時中国の戦況を見渡すに、総攻撃を決行しても日本を倒すだけの戦力はない筈、どんな手をうつかと気味悪くひそかに見守って居りましたが、一か月程経つと突然米軍のサイパン島攻略が始まったのです。ああ傍観しておれといったのはこれだったのか。母国日本はこれで最後だ。と、元来小心なわたしは涙も出ず、数日は唯茫然となりました。」
 
『奇跡の医師』光人社より