『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑫』

『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑫』
 
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頓宮寛の故郷・小豆島土庄町小部
 
  昭和二十二年九月十日、それまでの内海五ヶ町村組合立内海病院を、一町五村(草壁(くさかべ)町(ちょう)・安(やす)田(だ)村(むら)・苗(のう)羽(ま)村(むら)・坂(さか)手(て)村(むら)・西村(にしむら)・福(ふく)田(だ)村(むら))の国民健康保険組合立内海病院とし、岡山県玉野市三井造船玉(たま)野(の)造船所で勤労動員学徒の寮として使われていた二百五十坪あまりの木造二階建て建物を譲りうけ、診療所の隣接地に移転改装、一階部分は外科、内科、小児科、産婦人科の診察室、手術室、レントゲン室、薬局、事務室、二階を二十八床の入院病棟としたのである。
  院長である頓宮の挨拶は、次のようなものであった。
 
  一、小豆島の人がこの病院を活用して健康になり、病(やまい)と縁(えん)無(な)き島となること。その拠点がこの病院です。
 二、この病院の医療施設をゆくゆくは島の開業医の人に開放したい。
 
 病と縁無き島となる。病院を開業医の人に開放したいなどという頓宮のスピーチは、町長や病院関係者の度(ど)肝(ぎも)を抜くものであった。
  頓宮の気宇(きう)の大きさをあらわすエピソードが病院関係者の間に残っている。
 新病院落成の祝賀会でのことであった。
 祝賀の乾杯が終わり、祝宴に入り座がにぎわいだすと、微(び)醺(くん)をおびた町の有力者の一人が、頓宮の前に座り、
「頓宮先生、先生は上海で大(おお)けな病院を開業していたそうやが、借(しやく)銭(せん)はどのぐらいあったんどな」
 杯洗(はいせん)ですすいだ盃をさしだし、見下すような口ぶりで聞いてきた。
「まあ、小豆島を三つ足して売っても、わたしの借銭には足りませんな」
  頓宮は、町の有力者の不(ぶ)躾(しつけ)な質問に、笑みを浮かべながら答えた。
「小豆島を三つ足して売っても・・・」
 二の句を告げることができず、しばらく絶句していた醤油醸造業をいとなむ町の有力者は、
「ほう、ずいぶんと大けな借銭でしたんですな・・・」
  口元をゆがめながら捨て台詞を吐くと、腹立たしげに席を立った。
  すると今度は、国民健康保険組合の組合長をつとめる町長が頓宮の前に座り、
「頓宮先生は落成式の挨拶で、わたしは小豆島を病人が一人もおらん島にするようにがんばります。その拠点がこの病院ですといわれましたが、患者が来んかったら病院は赤字になって困りますがな」
  頓宮の挨拶を、揶揄(やゆ)するように聞いてきた。
「町長さん、なあんも心配することはありません。人口五万の小豆島から病人がいなくなれば、世界中から患者がこの病院にやって来ます」
  我が意を得たりとばかりに頓宮は答えたのであった。
  町長は、「世界中から患者が・・・」とつぶやくと、酔いの浮かんだ赤黒い顔に軽(けい)侮(ぶ)の色を浮かべたが、世界中から患者が来るということは、頓宮にとって、あながち荒唐(こうとう)無(む)稽(けい)な話ではなかった。
 頓宮は第二次上海事変後、北米航路(サンフランシスコ・シアトル・ホノルル・横浜・上海・香港)の旅客用旅行案内などに福民病院の写真入りの英文広告を出し、病院の施設やスタッフ、最新の医療機器を写真入りで紹介するとともに、上海から疾病(しつぺい)の撲滅(ぼくめつ)と医療を通じて国際都市上海の住民間の友好を深めようという自らの理念を掲載していた。
 また、病院のオープンシステム(開放型病院)についても、日本では病院は勤務医が治療するところで、個人医院は経営する医師が治療するところであるという閉ざされた蛸壺(たこつぼ)構造となっているが、かつて須藤医院の須藤五百三医師が福民病院の内科医長松井勝冬医師に魯迅の診察と胸部レントゲン写真の撮影を依頼し、魯迅の容体急変にさいして須藤医師が松井医師の往診を要請したように、福民病院は上海の基幹病院として、日本人や中国人開業医に病院を開放していた。開業医は福民病院の医療施設や設備を使用し、病院の医療スタッフと相談しながら患者の治療をおこなう。病院と開業医が連携をとり合うことで効率的な診療形態を構築するという、欧米型のオープンクリニックをおこなっていた。
 頓宮にしてみれば、福民病院を地域の開業医(診療所)に開放するという「病診連携」ーーパブリックサービスは、福民病院で実践していた、ごく当たり前のことであった。
 しかし、頓宮の町の有力者や町長にたいする受け答えなどがもとで、内海病院の頓宮院長は「大(おお)風呂(ぶろ)敷(しき)だ」とか、「大陸ボケ」しているという噂が流れたのであった。
  のちに、生家のある小部地区の人たちの間で、頓宮先生は内海町の偉いさんを相手に大きなことをいって顰(ひん)蹙(しゆく)を買ったといわれる所以である。
  これは頓宮にも、責任の一端がある。
 頓宮は、上海時代や福民病院のことをたずねられても、「べつに大したことをしたわけではありません。医者としてあたりまえのことをしただけですよ」と言うだけで、自分の成してきたことを終生口外しようとはしなかった。
 しかし、人は、自分の経験という物(もの)差(さ)しで物事を考え、判断する。往往にして、頭(知識)ではわかっている、知っているつもりでも、自分のありようや考え方では推し量ることのできない事象は、無意識のうちに排除しようとしてしまう。
 戦前、小豆島をおとずれた中国人が名勝寒霞渓から播磨灘や備讃瀬戸の海を眺(ちよう)望(ぼう)し、「日本にもなかなか大きな川がありますね」と、案内の島民に真顔でたずねたという笑い話が島に残っているように、小豆島を三つ足して売っても、わたしの借銭には足りませんなとか、世界中から患者が来る。病院を開業医に開放するなどということは、広大な国土と同じく「白髪三千丈」のように気宇(きう)壮大(そうだい)な表現や直言を好む国民性の中国人ならば、「さすがは頓宮先生、よき哉よき哉」と、横(よこ)手(て)たたいて談笑の渦ができたであろうが、相手は瀬戸内海に浮かぶ小豆島の醤油醸造業者や町長であった。
 岬の分教場を舞台に、先生と十二人の生徒との師弟愛を通して戦争反対を書き綴ったプロレタリア作家壺井栄の名作『二十四の瞳』に描かれているように、町の経済は海運業や石材業、マルキン醤油をはじめとした醸造業などが主な産業であった。壺井栄の父親が貧しい桶(おけ)作りの職人であった反面、それらの経営者は「旦(だん)那(な)衆(し)」「分(ぶ)限(げん)者(しや)」とよばれ、白壁の塀と土蔵のある、島民からみれば、大きなお屋敷に住んでいる。
  町の有力者や町長にしてみると、頓宮は終戦とともに上海から尾羽(おば)うち枯らして引き揚げてきた六十を過ぎた老医師ではないか、小豆島を三つ足して売ってもわたしの借銭には足りない。世界中から患者が来るとは、人をなめたホラ話もいいかげんにしろ、よその町出身の、雇われ医師のくせに大きなことを言うな、分際(ぶんざい)を知れ分際を、と思うのは致し方のないことであった。
 頓宮は、中国生活でつちかわれた、赤心(せきしん)を相手の肚(たん)裏(り)に置き、清濁併せ呑むという人であったが、もって生まれた気性は烈しい。落成祝賀会において、醤油醸造業をいとなむ町の有力者の、礼儀を欠く不(ぶ)躾(しつけ)な質問に、頓宮の上海流レトリックは、通用しなかったのである。
 新病院の落成式に出席していた数ある人の中で、真に頓宮のことを理解していたのは、頓宮が新病院落成記念の記念講演会の講師として招聘した元同志社大学総長の牧(まき)野(の)虎(とら)次(じ)ぐらいであったであろう。
 同志社において新島(にいじま)襄(じよう)の薫陶(くんとう)をうけた牧野は、明治二十八年、北海道集治監教誨師となり、三十二年渡米、エール大学に学ぶ。三十六年に帰国すると日本組合京都基督教会牧師として同派の機関誌『基督教世界』の編集にたずさわる。大正十一年、満鉄(南満州鉄道会社)の社会課長として中国東北部の社会事業にあたり、十四年、大阪社会課嘱託を経て昭和十三年、同志社に招かれ大学総長事務取扱、十六年から二十年まで総長をつとめるという経歴の持ち主で、大正二年、牧野は京都で新聞配達をしていた内山完造に、大学目薬本舗参天堂の上海出張員になることをすすめ、内山の中国大陸雄飛のきっかけをつくったばかりでなく、京都基督教会牧師として内山に洗礼を授け、祇園の苦(く)界(がい)を脱し教会に救済を求めていた井上喜美との結婚を喜び、自宅で結婚式をあげさせたのであった。
 内山が大正六年、上海の住居の玄関先を利用して小さな本屋ーー上海内山書店を開いたとき、宗教書専門の出版社である警醒社との取り引きができたのは、牧野の紹介があったからである。
  それにしても、新病院の落成記念の講演会に医学関係者ではなく、牧野虎次を講師に選ぶとは、いかにも頓宮らしい人選である。
 世界屈指の七百万国際貿易都市上海と瀬戸内海に浮かぶ『二十四の瞳』の小豆島、東洋一とよばれた鉄筋コンクリート造り七階建ての上海福民病院と、戦争中に勤労動員学徒の寮として使われていたものを流用した二百坪あまりの木造二階建ての内海病院とでは、悲しいまでにスケールが違いすぎて比較の対象とならないように、頓宮の言動や院長としての理念は、大陸ボケした老医師の虚言(きよげん)、引揚者のホラ話よと嘲笑されのであったが、頓宮はそのような世間の噂やしがらみはどこ吹く風と、医師である三男の三良、四男の四郎をよび寄せて医療スタッフの充実をはかるとともに、みずからメスを執り、これまでなら船を仕立てて高松や岡山の病院へ運ばれていた患者の手術にあたったのである