世に疎いテストパイロットですが、今話題の百田尚樹さんの『永遠の0ゼロ』、読みました。テストパイロットのブログをのぞいているブロ友の皆さんやアトランダムに立ち寄ってくれる皆さんに、訴えたいことがあります

 世に疎いテストパイロットですが、今話題の百田尚樹さんの『永遠の0ゼロ』、読みました。テストパイロットのブログをのぞいているブロ友の皆さんやアトランダムに立ち寄ってくれる皆さんに、ぜひ知って欲しいことがあります・・・
 
イメージ 1
 テストパイロットは、今話題の、読まれている百田尚樹さんの『永遠の0ゼロ』、読みました。
 実は、テストパイロットは、『ずっこけテストパイロット厄落としの旅』で、神風特別攻撃隊出撃の地である香川県三豊市詫間にある「詫間海軍攻撃隊跡」を訪れていました。
 
イメージ 2
 
 太平洋戦争開戦とともに、航空要員の大量養成を図るために、実用機を用いた実機練習航空隊を急造した。昭和182月には、横須賀鎮守府呉鎮守府が統率する3個練習連合航空隊を統括する「連合練習航空総隊」が編制された。この一連の増強計画の中に、呉鎮守府12連合航空隊所属の水上機実機練習航空隊の一つとして、香川県三豊郡詫間に設置されたのが詫間空である。詫間空では12機の水上偵察機とともに、48機もの練習飛行艇を備え、飛行艇搭乗員の重要な養成施設となった。
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
 昭和二十年二月十六日、全小型機による特攻訓練が実施され、詫間航空隊では水上偵察機による「神風特別攻撃隊琴平水心隊」が編成された。同時期、茨城県鹿島などで編成された魁隊も詫間航空隊に進出、ここで実地訓練を行い、鹿児島県指宿を前進基地として沖縄周辺の艦隊に体当たり攻撃を敢行した。
 
イメージ 6
   敗色濃くなった昭和20年3月には、神風特別攻撃隊琴平水心隊や魁隊(さきがけたい)という名の特攻隊が編成された。そして同年4月29日から5月28日まで の1ヵ月間には、そうした小型機の胴体に250キロの爆弾をワイヤーでしばりつけたまま、詫間湾から激戦中の沖縄戦線へ向かって、四次にわたり、36機が出撃して 52人が戦死しているが、それを知る人はあまりに少ない。四月二十八日から四次にわたる出撃で二十五機が米軍艦船に突入し、五十七余名の若者が沖縄の空に散華した。
 
イメージ 7
 
 詫間海軍航空隊では、ゲタバキ(水上飛行機の別称)の零式水偵や九四式水偵という小型で劣速の水上偵察機や「白菊」など練習機を使っての神風特攻作戦を敢行した。
 
イメージ 8
 昭和二十年四月二十五日、第五航空艦隊は決戦体制を整えるため、全飛行艇部隊を統合して実戦部隊、詫間海軍航空隊を編成した。詫間に配備された二式大艇は高速性能のうえ、大型レ-ダーを装備し、第五航空艦隊の目となって活躍した。
イメージ 9
 
イメージ 10
  これら詫間湖航空隊の戦闘を強力に支援したのが、第十一海軍空廠詫間工場であった。昭和十九年十月から詫間補給所の施設を利用し、徴用工員、増川挺身隊員、女子年少工、観音寺商業や善通寺高女の動員学徒を加えた約八百名の陣容で、各種飛行機の修理に精根を尽くし、被弾破損した飛行機を一刻も早く飛ばそうと、必死の思いの若い力が、二式大艇を決戦の空に飛ばし続けたのであった。 
 
イメージ 20
今は平和、そのものです。
 
イメージ 11
 三豊郡荘内半島の付け根部、詫間町香田地区、現在の国立詫間電波高専前に、トンネルを思わせる人工の加工物がある。これが海軍航空隊の防空壕の遺蹟である。
イメージ 12
 
イメージ 13
 
イメージ 14
 現存する唯一の二式飛行艇は、詫間空に残されていた残存機のうちの一機(詫間31号機)である。
 
イメージ 15
 香川県三豊郡荘内半島の付け根部、詫間町香田地区、現在の国立詫間電波高専前に、トンネルを思わせる人工の加工物があります。これが海軍航空隊の防空壕の遺蹟です。 
 
イメージ 19
かつての詫間海軍航空隊は、ある民間工場になっています。
 イメージ 16
 
イメージ 17
詫間空時代の構造物としては、飛行艇の滑水スリップが現存している。 
 
イメージ 18
遠くに瀬戸大橋が見えます。 
 
 太平洋戦争末期、多くの特攻隊員は、『永遠の0ゼロ』に出てくる戦闘機のゼロ戦ではなく、ワイヤーで250キロ爆弾をくくりつけた複葉の練習機や下駄履きの水上機で特攻に向かいました。
 ワイヤーで250キロ爆弾をくくりつけた旧式の練習機や水上機は、よたよたと飛んで沖縄を目指し、そのほとんどは、レーダー誘導されたアメリカの空母の迎撃機に片っ端から撃ち落とされました。
 希代のテストパイロットであった森川勲一等飛行機操縦士は、第八期操縦練習生同期15名の内、生き残ったのはテストパイロットをしていた森川さんだけでした。また森川さんが霞ヶ浦海軍航空隊で教えた第21期操縦練習生30名の内、29名が訓練中に殉職したり戦死しています。
 太平洋戦争末期、『永遠の0ゼロ』 のように、ゼロ戦で特攻にむかったパイロットは、ごく限られたパイロットであったのです。否、零戦21型と52型とを交換する余裕などなかったのです・・・
 
 
ブログ村ランキングに参加しています。
どうか皆さん、ポチッとクリックをお願い致します!!