森川がその上空を飛んでいた讃岐屋島

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森川さんがよく上空を飛んでいた場所の一つが、源平合戦で有名な屋島です。
小豆島土庄港から高松までフェリ-でちょうど1時間、(高速艇30分)、後10分というところ、高松港を正面に、左に屋島が横たわっています。
国指定の名勝である屋島は、まさにその名の通り屋根のような形状をした、南北5キロメートル、東西2キロメートルの島で、花崗岩の基盤の上に乗った輝石安山岩からなる溶岩台地となっています。これは、地中から噴出したマグマがテーブル状に固まってこの形になった説と、かつて平坦地で差別侵食によって周辺の標高が下がってこの形になったメサ説があります。山頂は、真ん中が僅かにくぼみ鞍部となり、南嶺292.1メートルと北嶺281メートルに分かれている。
 南嶺山上には四国八十八箇所第84番霊場屋島寺や屋嶋城跡があり、獅子霊巌(ししのれいがん)からの高松市、瀬戸大橋方面の眺望、談古嶺からの五剣山、源平古戦場方面の眺望は美しい。また、北嶺の遊鶴亭からの瀬戸内海方面の眺望もすばらしいものです。
その屋島が古代の朝鮮式山城であったということは、あまり知られてはおりません。
白村江の戦い敗戦後、唐・新羅の連合軍が攻め寄せてくることを恐れた天智天皇は、667年に讃岐に屋嶋城(やしまのき)を築かせたと日本書紀に書かれています。同じ頃、対馬長門国彦島、讃岐屋島、奈良の高安など30近い山城が構築されています。
 また屋島は、寿永3年(1184年)一の谷の戦いに破れた平家一門が安徳天皇を奉じて根拠としたところで、翌寿永4年(1185年)2月に起こった屋島の戦いの古戦場としても知られています。この戦いで源氏方の武者那須与一が、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした故事は有名です。
平家の猛将新中納言知盛が長門の国彦島に陣を構え、平宗盛率いる平家の本隊が屋島に陣を敷き、大動脈である瀬戸内海の制海権を掌握したのは、このような理由からです。


 明治になり瀬戸内海に突き出た突端、長崎ノ鼻に砲台が造られ、今もその基底部を見ることができる。


 写真でわかるように、深く切れ込んだ湾は檀ノ浦とよばれ、船を停泊するのに絶好の場所で、とんがり山一帯は、五剣山と呼ばれ、日本一の品質を誇る「庵治石(御影石)」を今も産出している。奇しくも、平家一門が最後をむかえたところは長門の国壇ノ浦、「檀」・「壇」、と違いはあるものの、歴史に導かれた縁であろうと思います。
次回は、屋島沖に浮かぶライ病患者の人たちが隔離された、映画「小島の春」の舞台となった大島青松園を紹介します。