「守破離」

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守破離

剣道のみならずひろく技芸、学問の世界には、先生と教え子、師と弟子との関係をあらわす言葉に、「守破離」という金言がある。よく武道場などに墨書されてかかげられている有名な言葉であるが、ともすれば字面だけを解釈して、「守」は守るーー師の教えを弟子は忠実に学んでそれを確実に身につける段階。「破」は破るーー「守」の段階で師から学んだものをもとに自分で創意工夫し、技術を高める段階。「離」は離れるーー「守」や「破」といったことを超越して技術をさらに深め自分の剣道を確立することだなどと唱える剣道家を散見するが、これは、技芸の道を探究する者が、もっともおちいりやすい病癖である「しがらみ」を、「継承」或いは「伝統」だと勘違いしている、思いこんでいることから、このような解釈となってしまうのである。
 技芸は、真似ることからはじまる。弟子は、師を全面的に信じて、師の教えを忠実に守らなければならない。師と瓜二つと呼ばれるようにならなければ、ものにはならないといわれる由縁である。しかし一方で、弟子は、師を全面的に拒否しなければならない。なぜなら、拙く、乏しい技をもって稽古に励む、試合に出るのは、自分自身である。師にもたれかかってはいけない。全責任は自分が負わなければならないからである。師を全面的に信じるとともに、全面的に拒否をする。その没入と拒否との苦渋に満ちたせめぎ合いを通して、自分の剣道というものを創りあげていくのである。と同時に、師たる者は、弟子を温かく、厳しく見守り、大きく道を踏み外しそうになったときになってはじめて、こうしろ、しなければならないというおしつけではなく、その弟子に見合う的確な助言、指導をしなければならない。そうでなければ、師も弟子も抜き差しならない、しがらみという蟻地獄に取りこまれるのである。
 「守破離」という言葉の奥底に潜む真の意味は、ーー守の次の段階に破があり、破の次の段階に離があるという底の浅い画一的、段階論的なものではなく、守の中に破が、離があり、破の中に守が、離があり、離の中に守が、破があるように、まさしく渾然一体のものであるということである。「守・破・離」では、師と弟子の継承の精神が、単なるしがらみとなってしまう。北辰一刀流開祖千葉周作が、「守破離ノ字義ヨクヨク味ハヒ修業肝要ナリ」と説いているのは、これがためである。