『道草』

 
『道草』
 
小中高と学校で、そして大学で、なにを教わり、学んだのだろうか・・・終生の師と仰ぐ恩師内田義彦先生から教わった経済学や社会思想史についても、まるっきりと言っていいほど思い出すことはできない。しかし、先生が何かの折に話した、道草のようなものは、不思議なことに今も鮮明に覚えている。
 その一つが、トルストイの『三人の隠者』というロシアの民話を内田先生が話してくれたことである。
 なぜ、内田先生が『三人の隠者』の話をしてくれたのかは覚えていないが、めったに見せない厳しい目つきとにじみ出る迫力は、今もあざやかに思い出す。
 
バイカル湖だったか、そこを都の高徳の僧正が船で旅をしていました。乗客の会話から近くの島に三人の隠者がいて行を積んでいるということを知りました。
高徳の僧正は、その三人の隠者に会いたくなり船頭に頼んで島へと渡りました。島では、一人は背が高く、一人はふつう、一人は背の低い三人の隠者が何やらわけのわからないことを唱えながら神に祈っていました。
高徳の僧正は、三人の隠者に正しい神への祈りの言葉を教えました。しかし、三人の隠者は物覚えが悪く、何度も何度も教えなければなりませんでした。ようやく三人の隠者が神への正しい祈りの言葉が言えるようになったころはもう薄暗くなっていました。船にもどった高徳の僧正は、小さくなっていく島をながめながら、神が自分を導き三人の隠者に正しい祈りの言葉を教えたと喜んでいました。
すると暗い夜の海に彼方から白くキラキラと光るものが、三人の隠者のいた島の方から船に近づいてくるのに気づきました。高徳の僧正は、最初はなんだろうといぶかしげに見ていましたが、そのキラキラと光るものは三人の隠者で、ものすごい勢いで海の上を滑るように近づいてきて、船端にたたずむ高徳の僧正に、「神様のしもべよ、私たちはあなたに教えてもらった正しい祈りを忘れてしまいました。どうか、もう一度教えてください」と言いました。これを聞いた高徳の僧正は十字を切り、「信心深い隠者たちよ、あなた方の祈りはもう神にとどいています。あなた方に教えるのは私ではありません。あなた方こそ、私たち罪人のために祈って下さい」と言い深々と頭を下げました。
これを聞くと三人の隠者は海の上をもと来た方へ去っていきました。そして、隠者たちが去った方からは、朝になるまで、ひとつの光が見えていたということです。
岩波文庫に中村白葉先生が訳した「イワンのばか」というのがあります。それに三人の隠者の話が入っていますので読んでみてください。トルストイは、自分の全作品を捨てても民話だけは残してと言ったそうです」
 
大学の教授が大学生にロシアの民話を話して聞かせる。まして内田先生は文学部の教授ではなく、経済学部の教授、経済学者である。内田先生は、わたしに何を言いたかったのか、何を伝えたかったのか・・・
ただ、わたしはその後三十数年の間、どうしてだかわからないが、この『三人の隠者』の話を思い出す時がある。
 
 
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