『海も暮れきる』 吉村昭

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                          『海も暮れきる』 吉村昭

 
 
 小説家の吉村昭が自由律の俳人尾崎放哉が、小豆島の南郷庵の庵守となり、その死をむかえる八ヶ月の間という、地域、日月を限定して昭和55年に描き上げた一冊。
 吉村昭の本は『戦艦武蔵』をはじめとして数あるが、この『海も暮れきる』は、私の曾祖母が少なからず登場することから、忘れ得ぬ一冊である。
 吉村さんが小豆島に取材で来島したおり、少しだがお手伝いしたこともあり、また拙著『テストパイロット』を書くとき、問い合わせ、またその著書から引用したこともあり、吉村さんは懐かしい人の一人で
ある。
「小説家というものはわずかの取材でここまで書くことができるのか」と驚き、取材の際の吉村さんの迫力に圧倒されたということを思い出す・・・
 写真の色紙は、吉村さんから記念にと頂いたものであり、現在玄関に掛けている。また台本は、NHK松山放送局が、この『海も暮れきる』をテレビドラマ化したときのもので、今ではなつかしい、藁半紙にガリ版摺りである。
 

                          尾崎放哉

 本名・尾崎秀雄。明治十七年一月、鳥取市に生まれる。県立鳥取第一中学校から第一高等学校第一部甲類(英語)を経て三十八年、東京帝国大学法科大学に入学、四十二年卒業。東洋生命、朝鮮火災海上などで十年余のサラリーマン生活をおくるも、人間不信と過度の飲酒から妻と職を捨て西田天香主宰の一燈園に入園。その後京都の常称院、福井小浜の常高寺、兵庫の須磨寺などの堂守や寺男として各地を流旅。大正十四年八月、安住の地をもとめて小豆島の地を踏み、島四国八十八ヶ所第五十八番札所西光寺奥ノ院南郷庵の庵守となるが、かねてより患っていた喉頭結核を悪化させ、十五年四月七日、庵の裏手に住む南堀トメという漁師の老婆に看とられ、四十二歳で死去。