にんげんと読むのか、じんかんと読むのか・・・良寛の『草庵雪夜作』

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   前回、人間を、にんげんと読むのか、じんかんと読むのかについて、尻きれトンボになってしまいました。
 にんげんとじんかんの違いを知ったのは、今から20数年前のこと

 テストパイロットは上京するといの一番に、目黒の鷹番にある大学時代の恩師内田義彦先生のお宅を訪ね、いろいろと話を伺っていました。
 そんなある日、そのころわたしが習字をしていたので、いつしか良寛の書についての話になりました。
 良寛の作品の写真集を出してきた先生が見せてくれたのが、良寛天保二年正月六日に74歳で亡くなる前に書いた『草庵雪夜作』であった。
 
      回首七十有餘年         
首を回らせば七十有余年
     人間是非飽看破          
人間の是非看破に飽きたり
     往来跡幽深夜雪          
往来の跡は幽かなり深夜の雪
     一炷線香古匆下
             一炷の線香古窓の下
 
   内田先生から、「どうですか」と聞かれたので、「いかにも良寛さんらしい字ですね。人間(にんげん)の是非看破に飽きたりとは、七十有余年の人生を振り返ると人間のいやらしさを飽きるほど看てきた。死をむかえようとしている良寛さんの大悟した心情がよくあらわれていると思います」と答えると、「人間(にんげん)と君は言いましたが、これは「じんかん」と読まなければなりません。人ではなく、世の中、世間という意味です・・・良寛は、そんな甘い男ではありません。彼の冷徹な目は、世の中を見据えていますよ・・・」と言われました。
  内田先生の解釈は、良寛の著名な研究者などの、「みまわすところ、七十年あまりも、人のよしあしを、嫌というほど見てしまった。行くも帰るも、路はもううす暗く、夜半の雪で埋まった、さいごの線香が一本、古びた部屋でもえて尽きようとしている」とか、「七十余年をふりかえれば、この人の世の是非善悪を見破り道理を説くことには、飽きてしまった。行き来する道の足跡は、深夜に降る雪のために幽(かす)かになって一つの線香の火が古びた窓の下にある。それは、わたし・良寛の生命の微かなともしびでもある」という解釈とは、およそ正反対に位置する峻厳なものであった。
 内田先生に読むようにとすすめられた岩波のジュニア新書『漢語の知識』・一海知義著を読んでいると、「人間(にんげん)と人間(じんかん)」という章があり、『貧乏物語』で有名な経済学者の河上肇も、自作の七言絶句「早醒(早起き)」の冒頭、「人間第一自由身」において、わざわざジンカンとふりがなをつけているとあった。
 「人間」を、人ととらえるのと、世間ととらえるのでは、意味が違ってくる。だからこそ河上肇は、ふりがなをつけたのであろう。
 わたしは、この良寛漢詩を通して、人間を「じんかん」と読むということと、漢詩のオリジナリティな解釈ということを内田先生から教えていただいた。