『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑨』

『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑨』
 
 昭和六年九月の満洲事変以来、翌七年七月の第一次上海事変、十二年七月の蘆溝橋事件、八月の第二次上海事変、十二月の南京陥落と中国戦線は、藤原義江が歌い大ヒットした『討(とう)匪(ひ)行(こう)』の「どこまでつづくぬかるみぞ」の歌詞そのままに、泥沼化の様相を繰りひろげていた。
 年があらたまった昭和十三年一月十六日、日本国政府は「帝國斷呼國民政府否認を聲明」「爾後、國民政府を對手にせず・・」という近衛声明を出し、自らの手で中国との和平への道を閉ざしたばかりでなく徐州を占領すると、五月十九日、蔣介石率いる国民政府の壊滅を目的に「広東・漢口作戦」の策定にとりかかったのである。
  国民政府軍の武器弾薬は、その大半が最大の援助国であるソビエト製(飛行機などはアメリカ製)であった。この援(えん)蔣(しよう)物資の約八割は香港から広東を経て漢口へと運ばれていたことから「香港ルート(中国名・東(とう)南(なん)公(こう)路(ろ))」とよばれていた。
 日本軍は、国民政府の生命線である香港ルートを壊滅させることを目的に、香港の東方に位置するバイアス湾に陸軍部隊を上陸させて広東を占領する「広東作戦」と、揚子江を遡江して国民政府の首都である漢口を攻略する「漢口作戦」の両面作戦を発動した。
 この時期、頓宮は和平工作に奔走している。
 頓宮家に、「昭和十三年香港QneensRdビラ」と裏書きされた写真が残っている。
 
     壁報
   廣州淪陷余漢謀未
   發一彈而退守這個
    秘密究竟何在吾粤
   的父老們知道嗎?
    這是敵人今井高頓
    漢等買収壹仟萬圓
   的代価呀
     十月廿五日壁報社敬白
 
 広州の陥落に際して、余(よ)漢謀(かんぼう)は一発の弾丸も発射せずに退却した。この謎はいったいどこにあるのか。わが粤(えつ)(広東)の長老の方々はご存じか?これは敵の今(いま)井(い)武(たけ)夫(お)(中佐・陸軍参謀本部支那班長)と高橋担(たかはしたん)(大佐・中支那派遣軍参謀本部第四課長)、頓宮寛(上海福民病院院長)の奴らが一千万円で余漢謀を買収した代価なのだ。
 この写真について、頓宮は昭和三十五年に『日中事変遮断目的の広東工作』注⑧と題して、次のように書き残している。
 
「昭和十三年、当院患者の中国友人を介し、広東の余漢謀将軍と私との間に、秘密連絡が出来ました。将軍は事変拡大による広東省一帯の戦火を避ける住民の希望を容れ、海岸一帯の地区のみならず、省全般にわたる戦斗準備を撤廃して、中立態度を標榜したのです。私は〝占めたツ〟と一大喜悦を感じたのです。私の案はこれを基礎とし、国民政府蔣総統に工作して、中日事変を中断して、全面和平を実現するにあったのです。然るにわが軍はこれを逆用して、肝心の私には何等の相談もなく、ダマシ討ち戦術に出たのです。当時の人々には記憶にありましょうが、安達部隊と称する台湾予備軍が、突如対岸のバイアス湾に上陸、遂に無人の境を行くが如く広東(広州)一帯の無血占領を実現したのです。
 目と鼻の香港は避難民殺到で大騒ぎ、余将軍の反対派は早速クインズ・ロード(東京でいえば大手前)その他にビラを貼って気勢を挙げたのです。仮に、若し敵軍が不意に戦備を撤廃した三浦半島に上陸し、横浜を迂回して東京に乗りこんだ場合、香港を仮想する横浜は上を下への大騒ぎでしょう。
 せめてこの際、軍が自重して待機の姿勢をとっていたら、日本国は安泰であり、生き延びた筈ですが、常軌を逸した軍は昭和十五年(注・九月)突如広東省の国境を越え仏印に侵入し、首都ハノイをはじめハイフオン港一帯を占領してしまったのです。これが抑々国を滅ぼした太平洋戦争の発端で、米国は直ちにわが国に対し輸出禁止(ガソリン等)を声明したのです。」
 
  頓宮の思いとは裏腹に、新たに編成された第二十一軍三個師団約七万ーー山東省にいた広島第五師団は青島から、久留米第十八師団は大連、名古屋第百四師団は上海から輸送船に乗り、余漢謀将軍(広東第四路軍総司令官)率いる中国軍十五個師団約十万が布陣している広東を目指したのであった。
 十月十二日、第十八師団と第百四師団がバイヤス湾に上陸。中国軍の抵抗は微弱で、二十一日には広東市を占領した。
 約一ヶ月はかかると想定されていた広東作戦は、わずか十日間で、それも戦死百七十三名、戦傷四百九十三名という軽微な損害で、広東市とその周辺を占領したのであった。
  中国軍の捕虜は一千三百四十名足らずであったが、捕獲した大砲百八十九門をはじめとして機関銃、小銃、弾薬、米麦などは数知れずという有様で、国民政府は余漢謀将軍が日本軍の今井武夫と高橋担、上海福民病院院長の頓宮寛に買収されて、まともに戦わず逃げたからだと、頓宮家に残されている「昭和十三年香港QneensRdビラ」と裏書きされた写真に見られるように、非難攻撃の宣伝戦を盛んに行なったのである。