『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑦』

『志に生きた男・奇跡の医師頓宮寛 ⑦』 
 
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 頓宮は、上海の裏社会を支配していた青幇の活動の一端を、昭和三十五年に書いた『満洲事変不拡大工作、嗚呼、母国の危機を余所に先ず自己の点数を』で、次のように述懐している。
満洲事変(中国人は満洲と申しません。必要な時は東三省と申します)進行期で時期をはっきりと思い出せませんが、中国友人、王子恵は当時国民政府の王者である宋子文を背景に、満洲事変不拡大の一策として、先ず上海に中日合弁「連亜実業公司」と称する両国間通商を一手に引き受ける公司を開設する案を立てました。それは当時猛進しつつある日貨大排斥中の重要品目である人絹を筆頭に他の物資も逐次解禁して、両国民の緊張を解消し、侵略行為や戦争を不必要不可能にしようとする案でした。
  先ず在留日本人殊に大商事会社上海支店長級数名を主役とし、有力中国人数名と共に秘密会談を致しました。私も日本人側の一人でした。中国側代表メンバーの一人として後の上海総商会長の王暁籟老がおりました。
 中国には民間に厖大な地下結社があり、華北方面は「紅幇(ホンパン)」、華中揚子江地域には「青幇(チンパン)」の勢力圏で王暁籟老は後者の大親分であり、私は以前から懇意でした。中国人は、多妻を誇りとする習慣がありましたが、王老は太太二十五人ありと公言しておりました。太太とは奥さんの中国語です。私は〝頓宮先生有幾個太太〟(太太が何人あるか)と時々問われましたが、こんな場合〝我有一個太太(妻は一人)〟と返答をしても先方は信用する筈はありません。(中略)総商会の社会的地位は、東京または大阪商工会長にあたりましょうが、王老は揚子江を背景にしている大親分ですから、一般民衆に対する迫力はより以上でした。王老は私を期待している様でした。宋子文が南京から密かに上海に来たり、この会談が成功したら頓宮と親友になるという伝言もありました。」
  頓宮が国民政府の王者といった宋子文は、その当時南京国民政府財政部長で、有名な「宋家三姉妹」ーー宋靄齢(孔祥煕夫人)・慶齢(孫文夫人)の弟、美齢(蔣介石夫人)の兄にあたる。一九一二年、上海の聖約翰大学を卒業後アメリカのハーバード大学コロンビア大学で経済学を学び博士号を取得した宋子文は、一九一七年に帰国すると漢冶萍煤鉄公司の経済顧問に就任したことから、同社の大冶病院長であった頓宮とは旧知の間柄であった。
 上海の中国人社会のなかで生きていく以上、青幇との関わり合いは避けては通れない。石射猪太郎は、公私ともに多数の中国人士と相識ったとしているが、それはあくまでも日本の上海総領事にたいする儀礼上の顔である。
「王老は揚子江を背景にしている大親分ですから、一般民衆に対する迫力はより以上でした。」と、王暁籟の表の顔も裏の顔も知り尽くし、不客気の老朋友としてつきあっていた日本人は、上海、いや中国に何人いたのであろうか・・・