『志に生きた男・頓宮寛 ④』

『志に生きた男・頓宮寛 ④』 
 
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 大正十一年に入ると頓宮は、王震をはじめとした上海の中国人有力者や愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)出身で上海南洋医学専門学校の校長をつとめる顧南群などから、「中国には近代的な西洋医学を習得した西医があまりにも少ない。医療、衛生の面から中国の近代化を推進していかなければならない。『衛生救国』のために頓宮先生ぜひ協力をお願いしたい」 という要請をうけ、福民病院の経営のかたわら上海南洋医学専門学校の名誉校長兼外科の主任教授に就任し、李)定(教務長・大正六年千葉医専卒)、夏建安(病理学教授・大正六年大阪医専卒)、呉宗慶(のち南洋医科大学学長・大正七年愛知医専卒)、孫孝寛(外科教授・大正九年京都帝大卒)らとともに中国人医学生の養成にたずさわったのである。
  上海南洋医学専門学校の創立者である顧南群は、大正五年、愛知医専を卒業すると帰国、上海山海関路に南洋医院を開設、二年後の大正七年、南洋医院を南市)小南門内黄家路に移転し、その跡地に上海南洋医学専門学校を設立、中国人医師の養成にとり組んでいたのである。
 頓宮が上海南洋医学専門学校の名誉校長兼外科主任教授に就任したきっかけは、顧南群の弟で、頓宮の日本医学専門学校時代の教え子である顧南逵が、午前中は福民病院で外科医として勤務し、午後は南洋医学専門学校で教鞭をとっていたからである。
  医科大学への昇格をめざしていた顧南群にとって、頓宮の協力は大きかった。
 福民病院の各科の医長が南洋医学専門学校の講師をつとめる。福民病院が臨床の病院となったということが大きく寄与し、大正十三年十月、上海南洋医学専門学校は「南洋医科大学」へと昇格したのであった。
 この年の四月、上海南洋医学専門学校を卒業予定の中国人学生十数名が日本におもむき、長崎医大、九州帝大を見学している。そのなかの一人、陳人傑は南洋医専を卒業すると、頓宮の紹介で岡山医科大学に留学して研鑽を積み、帰国後は福民病院の内科医師として勤務したのであった。
 頓宮は、上海南洋医学専門学校に関して、次のように述懐している。
 
「私の経歴中に中国医学生を養成した時代がありましたが、遺憾ながら事変により中絶、育成した中国医師二〇〇名(注ある人の記によると二八〇名)は上海地域を中心とし、主として揚子江の南方地域、奥地は四川方面にも散在して、事変にも関せず、彼らは日本医学派と称し、少なくとも私に対しては敵国人扱いを致しませんでした。蒔いた種は戦争や時代を超越していつまでも残ることを深刻に感じました。彼らは今でも「南洋医学同窓会」との名称の下に団結を続けている筈です。ちなみに、南洋(ナンヤン)という名称の意味は「揚子江以南地域」のことで、この点は日本人一般の解釈とは異なっております」