ふるさと小豆島、知っていそうで知らないふるさとを散策 小豆島町安田の「ヤマロク醤油」さんをたずねました。

ふるさと小豆島、知っていそうで知らないふるさとを散策
小豆島町安田の「ヤマロク醤油」さんをたずねました。

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 醤油造りでテレビなどマスコミで取り上げられている「ヤマロク醤油」さんをたずねました。木の桶が出迎えてくれました。

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ふと、醤油蔵の外に目をやるとなにやら竹の細工をしているのか・・・

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 1954年に小豆島に生まれて、大学四年間をのぞけば、赤線で囲まれた小豆島土庄町に60有余年も住んでいるテストパイロットですが、小豆島町(旧池田町・内海町)のことはほとんど知りません。
 たずね歩いて「ヤマロク醤油」さんに行きました。

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「ヤマロク醤油」さんは、木桶職人復活プロジェクトを推進いています。

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 さすがマスコミにたびたび登場する「ヤマロク醤油」さんてす。蔵の壁には、有名人のおびただしい色紙が・・・

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 家族連れがいました。たたずんでいると従業員でしょうか、女の人に、「観光客の方ですか、蔵を見ますか」と声をかけられました。思わず「ああっ、はい」とこたえて、蔵を案内してもらいました。

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醤油の木の樽にびっしりとついている醤油の麹菌には驚きました。

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「ヤマロク醤油」さんの醤油の味見をさせて頂きました。

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 今回、「ヤマロク醤油」さんを訪れたのは、実はこの離れを見たかったからです。
 昭和21年9月、戦前に国際都市上海で東洋一と謳われた「上海福民病院」の院長であった頓宮寛博士の招聘にこたえて小豆島に来ていた産婦人科医師である高山章三博士一家が住んでいた離れである。今は、改築されて立派な建物になっていますが、ここに高山先生一家が住んでおられたのかと思うと・・・
 高山章三先生は、上海福民病院副院長、中国の文豪であった魯迅と交友があった人である。

 中山大学でともに教職についていた許広平と同棲。四年九月二十六日、日本に留学し仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)において二年間医学を学んだことのある魯迅は、出産をまじかにひかえた許広平を、かねてより親交のあった高山章三博士が産婦人科医長をつとめる福民病院に入院させたのであった。
 翌二十七日の許広平の出産は難産で、ついには高山博士自らが鉗子で胎児を引き出すという、医療施設と技術の遅れた中国人の医院であれば、許広平とお腹の中の子どもは命がなかったといわれるほどの難産で、まさしく「女人生孩子 一)脚伸在棺材里(女にとって子を産むことは、片足を棺桶に預けることだ)」であった。
 内山完造は、許広平の出産と入院の模様を、
「サテ魯迅先生と許広平との結婚は、上海の東横浜路景雲里であって、海嬰君の生まれたのも其頃であって、確か北四川路の福民病院に入院されたと思うが、なんでもお産が少し重くて陣痛が長くつづいて遂に鉗子で引き出されたと聞いて居るが、然し産まれた赤ちゃんが男子であったので先生はとても喜ばれたそうだ。その筈である。先生は女史の産褥に毎日つきっきりで、其帰りには一寸私の店へ寄ってお茶を飲んで赤ちゃんの日に日に大きくなり発育する模様を話される嬉しそうな顔は、それまで見ることの出来なかった明るく朗らかであったことは今も覚えて居る」注⑤
  出産の翌日、魯迅は母子の平安を祝い、幽雅を愛する文人が好んで書斎に置いた文竹(もんちく)一鉢を持って福民病院をたずね、二月十日に入院費七十元、付添婦二十元、雑役夫代金十元を支払って退院するまでの二週間あまり、毎日病室に顔を出したのである。
 上海で生まれた嬰子(子ども)であり、生命を脅かす邪霊を祓い、この子の健やかな発育を祈るという意味で「海嬰(ハイイン)」と命名された魯迅許広平の一粒種は蒲(ほ)柳(りゆう)の質で、乳児検診や種痘(しゆとう)のほかに、父親に似て喘息(ぜんそく)の気があり、よく風邪をひいたり発熱した。そのたびに魯迅は海嬰を抱いて福民病院に通ったのであった。(『奇跡の医師』・光人社 南堀英二著)より抜粋

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 女の人が、薄くそいだ竹を一心不乱に磨いていた。聞くと、醤油の桶のタガだという。顔を見て驚いた・・・
 狭いようで広い小豆島、まだまだ知らない故郷の島の姿があります。

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