2009-01-01から1年間の記事一覧

八九式飛行艇の試験飛行、森川、霞ヶ浦海軍航空隊へ

離水に失敗した三番機の主操縦員は、佐世保航空隊では飛行艇パイロットとして第一人者の空林永治空曹長であった。空林のようなベテラン中のベテランでさえ、思わぬアクシデントに遭遇して事故を起こしてしまう。飛行艇において、燃料満載の過荷重時状態での…

操練同期の間瀬平一郎との再会

その頃、横須賀航空隊には、第八期飛行練習生同期として霞ヶ浦で同じ釜の飯を食べた間瀬平一郎が陸上機班戦闘機分隊におり、一三式艦上攻撃機のパイロットとして、派手なスタント飛行の練習を披露して、空を仰ぐ万人から喝采を浴びていた。 間瀬は、第八期飛…

森川、飛行艇パイロットとして横須賀海軍航空隊へ

森川が飛行艇のパイロットとして訓練に明け暮れていた昭和三、四年頃の日本の航空界を、ジャーナリストの高木健夫は、こう述べている。 「その年の五月、土浦に転任すると、そこに霞ヶ浦海軍航空隊が待っていた。土浦通信部というところは、まるで霞ヶ浦航空…

森川は戦艦陸奥での二年間にわたる艦隊勤務を終え、飛行艇パイロットに

昭和三年十二月一日、森川は戦艦陸奥での二年間にわたる艦隊勤務を終え、再び佐世保航空隊に帰ってきた。配属された分隊は、水上飛行機乗りあこがれの飛行艇分隊であった。 飛行艇分隊は、パイロットはもとより、偵察、電信、機関兵に至るまで皆ベテランばか…

森川、陸奥とともに、青島、芝罘、旅順、大連、基隆、香港、馬公などを巡る

森川は、陸奥での二年間にわたる艦隊勤務において、日本各地の要港を初めとして、青島、芝罘、旅順、大連、基隆、香港、馬公などを巡り、瀬戸内海はもとより太平洋、日本海、東支那海などの外洋を飛び回るという、海軍航空隊のパイロットとして得難い体験を…

「昭和の御代」初めての大観艦式が横浜沖で挙行された。森川、天覧の栄に・・・

十月二十一日、連合艦隊は大島沖において、加藤寛治大将率いる第一、第二艦隊からなる青軍(防御軍)と、山本英輔中将率いる特設第三艦隊よりなる赤軍(攻撃軍)に分かれ、秋の大演習を行った。 三十日、「昭和の御代」初めての大観艦式が横浜沖で挙行された…

森川、「美保ケ関事件」に直面する。初めての郷土訪問飛行。

艦隊勤務は、前期と後期の年二期に分かれていた。一月中旬から五月中旬までの前期四ヶ月の訓練が終わると、各艦船は整備や修理、乗組員の休養、補充交代のためにいったん母港に帰り、一ヶ月余りの休養の後、七月初旬から十一月末までの後期四ヶ月が始まるの…

森川・パイロットとしてリンドバーグの偉業に心を高鳴らせる。

一四式水上偵察機の揚げ降ろしには、主砲などの射撃を担当する陸奥第三分隊があてられていた。分隊長は、大正十三年に摂政宮(昭和天皇)と結婚した久邇宮良子女王の兄である朝融王であった。 朝融王は、青年士官らしく地味な揚収作業よりも、大空を自由に舞…

「陸奥」はじめての40センチ主砲弾着観測・連合艦隊航空参謀は大西瀧治郎であった。

森川が初めて弾着観測をしたのは、宿毛沖で行われた陸奥、長門の二戦艦による甲種戦闘射撃訓練であった。 戦艦の主砲の斉射は、戦技演習の花形であり、その中でも陸奥、長門の四十センチ主砲の斉射は、全海軍注目の的であった。 戦闘射撃訓練は、五万メート…

ペンネットは「大日本軍艦陸奥」、花の一等水兵でパイロット

佐世保海兵団出身の水兵にとって、数ある佐世保鎮守府艦籍の軍艦の中で最高峰に位置していたのは陸奥であり、佐世保の街のみならず、呉や横須賀に上陸しても、陸奥の乗組員だと一目置かれ、肩身の狭い思いをせずにすんだ。敷設艦常磐という艦齢二十五年を超…

陸奥、弾着観測のため一四式水上偵察機を搭載。森川、艦隊勤務はじまる

パイロットである森川が陸奥乗組みを命じられたのは、その陸奥と長門に水上偵察機を搭載し、空からの俯瞰弾着観測を試みようとしたからである。 陸奥、長門などの戦艦に搭載されている主砲は、海軍の戦闘能力を誇示するものであり、日本のみならず欧米各国の…

森川、連合艦隊旗艦「陸奥」の初代水偵搭載パイロットとなる。

大正十五年六月一日、佐世保鎮守府所属の五名の内、森川ら水上機専修者三名は佐世保海軍航空隊水上機隊に、陸上機専修者二名は大村海軍航空隊陸上機隊に配属された。 佐世保海軍航空隊(通称・佐空)は、我が国最初の海軍航空隊である横須賀航空隊に遅れるこ…

大正十五年五月二十九日、森川は第八期飛行練習生同期十四名とともに卒業式を迎える。

その年の暮れ、小豆島に帰省した森川は、親戚や友人から求められるままに霞ヶ浦での飛行訓練の模様を話した。 幼なじみや朋輩からは、「ほう、森川さんは海軍に志願して水兵になったのに、飛行機というものに乗って空を飛んどるんか、ところで飛行機というも…

ハンザ水上偵察機で、特殊飛行や編隊飛行の訓練が始まる。

中間練習機教程(中練)に進むと、使用される飛行機も、アブロ水上練習機から実用機であるハンザ水上偵察機に変わり、特殊飛行や編隊飛行の訓練が始まった。 飛行適性検査や初歩練習機教程で使われたアブロ水上練習機は、離着水、水平直線飛行、旋回、上昇、…

森川、アブロ水上練習機で単独飛行、これで練習生は15人に絞り込まれる。

一日二回の搭乗、飛行時間は十五分から二十分、延べ時間にして十五時間余りが過ぎた。三ヶ月間の初歩練習機教程の仕上げは、単独飛行であった。 技量未熟として単独飛行を許されない場合、飛行機操縦の適性に欠けると烙印を押され、練習生は容赦なく「首切り…

イギリス製アブロ504L型水上練習機を使った飛行訓練がはじまった。

航空隊の一日は、夏は五時半、冬は六時の起床ラッパで始まる。 ハンモックから飛び起きた練習生は、当直教員の点呼を受けると霞ヶ浦の湖畔にある格納庫に隊伍を組んで駆け足で向かい、アブロ水上練習機をポンドに並べる。それが終わりしだい兵舎に戻り、麦飯…

霞ヶ浦航空隊の副長兼教頭は、山本五十六大佐だった。

大正十四年九月一日、難関を突破した森川は、第八期飛行練習生合格者二十名とともに霞ヶ浦海軍航空隊に入隊、練習分隊に編入された。 航空隊の司令は、安藤昌喬少将(海兵二十八期)。後年、航空本部長として海軍航空廠創設に尽力し、海軍航空隊の育成に大き…

霞ヶ浦海軍航空隊第八期飛行練習生、通称「操練」となる。

大正十四年七月五日、森川は、航空隊名物の桜並木に生息する蝉のけたたましい鳴き声を聞きながら、大きな檜の一枚板に草書で「霞ヶ浦海軍航空隊」と墨痕凛々大書された看板のかかる隊門をくぐり、白ペンキ塗り木造二階建ての航空隊本部に向かい、仮入隊の手…

森川、憧れの霞ヶ浦海軍航空隊へ

常磐での一日は、夏は午前五時半、冬は六時の総員起こしから始まる。釣り床をすばやく括り、甲板に出てデンマーク式体操とスウェーデン式体操をもとにした海軍体操を行う。続いて甲板洗い、寒風吹きすさぶ真冬でも裸足になり作業ズボンの裾をまくり上げ、ソ…

森川勲、小豆島と別れを告げて海軍へ

大正十三年四月、十八歳を迎えた森川は海軍を志願し、見事合格した。 六月一日、小豆島での教員生活に別れを告げた森川は、四国や九州出身者が入団する佐世保海兵団の門をくぐり、服の色から「カラス」と呼ばれる日給十七銭の海軍四等水兵となった。 日本海…

大空への階(海軍飛行練習生)・名テストパイロット森川勲の生涯を紹介します。

大空への階(海軍飛行練習生) 東瀬戸内海の播磨灘と備讃瀬戸の迫間に浮かぶ子牛の形をした小豆島は、瀬戸内七百余島と呼ばれる島々の中で、淡路島に次いで二番目に大きな島である。 その小豆島の戌亥(北西部)、ちょうど子牛の肩口に位置する四海村(しかい…

瀬戸内海を舞台にグラマンとの死闘です。

古来より子牛の形をしているといわれる小豆島のちょうど肩口に、森川の生まれ育った四海村が位置している。村の沖合には小豊島、豊島が横たわり、その間を空からこぼれ落ちたかのように離れ小島が点在している。それら島と島との間の狭隘な瀬戸は、潮流と同…

お待たせしました。グラマンとの死闘の続きです。『テストパイロット』一等飛行機操縦士森川勲の生涯・光人社NF文庫

ほっとする間もなく、 「十一時にグラマン二機」 副操縦席の岡本が怒鳴るのと同時に、艇内に敵機発見のブザーがけたたましく鳴り響いた。 電信員が九六式空四号無線送信機の電鍵に取り付き、「トン・ツー・ツー・ツー・トン」というセ連送(ワレ敵戦闘機の追…

①  グラマンとの死闘  終戦間際、瀬戸内海を舞台にテストパイロット森川操縦の二式大艇とグラマンとの空中戦の死闘です。読んでみて下さい。

① グラマンとの死闘 「森川飛行士、岡山方面が米艦上機の空襲を受けている、十分注意されたしという緊急電が川西本社より入りました」 電信員が、主操縦席で操縦輪(ホイール)を握る森川の耳元で怒鳴った。 森川の操縦する二式大艇は、詫間航空隊から発動機…

拙著「テストパイロット」(光人NF文庫)掲載します。読んでみて下さい。

「テストパイロット」 壹等飛行機操縦士 森川勲の生涯 はじめに 教壇に立つ森川勲の耳に、「ブーン、ブーン」という、発動機の爆音が忍び込んできた。 (飛行機・・・それも双発機) こちらに近づいているのか、爆音はしだいに大きくなり、やがて窓の外から…